【56】禅堂に動くものなし蟬しぐれ  五藤節夫

五藤節夫『仲山道』(私家版、平成七)の一句。

巻末の略歴によれば、五藤は明治四三年に鳥取で生まれ、その後株式会社新潟鉄工所、協三工業株式会社に勤めたいわゆる技術者であった。本書に収録された娘の回想によれば「〝東洋経済〟や〝ダイヤモンド〟を数十年間愛読」していたというから、勤勉な人柄がうかがえる。五藤が俳句を継続的につくるようになったのは、退職後の昭和五四年に仲本公民館での俳句初心者入門教室に申し込んだことがきっかけであるようだ。その後は俳句教室で講師をしていた松井葵紅に師事し、松井の指導する「あふい会」に入会し月例会を楽しみにして句作りに励んでいたという。やがて車椅子を使うようになってからも妻の手を借りながら通い続け、月二回開かれる「浦和俳句教室」にも新たに入会して鶴岡梨江子の指導を仰いでいたというから、身体が不自由になっても俳句への情熱は高まる一方だったのではないだろうか。妻の五藤得子は本書のあとがきに「不自由な体で俳句だけを楽しみにする毎日でした。作れなくなったのは亡くなる前一年位だったと思います」と記しているが、五藤が亡くなったのは平成六年のことである。その俳句は死後得子の手によってまとめられ、翌年に本書上梓となった。

本書は昭和五五年から平成五年までの句を一年ないし三年ごとに区分し、それらを制作年順に配列する構成となっている。興味深いことに―後述するようにこれは決して意地の悪い意味で言うのではない―本書には同じ句が重複して収録されている。「三峯や冬の神域寂として」(昭和五五年~五七年の項と昭和五八年~五九年の項)、「禅堂に動くものなし蟬しぐれ」(昭和六二年の項と平成二~三年の項)、「座敷まで麦茶の匂ひ芳しき」(昭和六二年の項と平成二~三年の項)がそれである。得子によれば「家での句作りは、レポート用紙を使って書いては直し、それをまた書き直したものが随分たまりそれを捨てられないのです」というありさまだったということだから、あるいはこれは句を整理している際に生じたたんなるミスなのかもしれない。だが、こと本書にあっては、これをたんなるミスとのみ考えるのは早計であろう。というのも、本書には全く同じではないもののほぼ同じかたちの句がいくつも掲載されているのである。

山峡に武蔵の里や鯉のぼり     昭和五五~五七年
山峡の武蔵の里や鯉のぼり     平成二~三年

梅雨明けや警策ひびく座禅堂    昭和五八年
梅雨明けて警策ひびく石畳     昭和六二年

鯛焼きをいだきて帰る年の市    昭和六〇年
鯛焼きを抱きつつ帰る年の市    平成四~五年

ベイ独楽の一つ弾けて蟬時雨    昭和六〇年
ベイ独楽の弾けてついに蟬しぐれ  昭和六一年

試験合格と電話の声のうるみけり  昭和六〇年
合格と電話の孫の声うるむ     昭和六一年

葱坊主まっすぐ伸びて空の青    平成二~三年
葱坊主ますぐに伸びて空の青    平成四~五年

本書収録句数は三九九句。そのうちの二〇句近くがこのように似通った句、あるいはまったく同じ句なのである。またここまで似ていないまでも、類想と思われる句まで数えあげればさらに数は多くなってくる。ここまで多くなると、むしろこのように何度も同じような句を読ませるという本書の編集が、何か独特の切実さを示唆しているように思われてくる。結論から言えば、これらの句が実際に本書に書かれた通りの年に詠まれたかどうかということなどさほど問題ではない。むしろ、「五藤節夫」という書き手が何度も同じ句を詠んでいるかのように僕たちが読んでしまえるということにこそ本書の魅力があるのである。

表題句は前述のとおり昭和六二年の項と平成二~三年の項に重複して掲載されている。ただし、「禅堂」「蟬しぐれ」を詠んだ句に目を向けるならば、やや違った印象が感じられる。

梅雨明けや警策ひびく座禅堂    昭和五八年
ベイ独楽の一つ弾けて蟬時雨    昭和六〇年
ベイ独楽の弾けてついに蟬しぐれ  昭和六一年
禅堂に動くものなし蟬しぐれ    昭和六二年
梅雨明けて警策ひびく石畳     昭和六二年
 禅堂に動くものなし蟬しぐれ    平成二~三年

警策のひびく夏の「禅堂」と、ベイ独楽の弾かれた瞬間とそこにひびきわたる「蟬しぐれ」とを、五藤は繰り返し詠んでいる。警策の一瞬のひびきとベイ独楽の弾かれたそれとをとらえているという点に注目すれば、両者の対象へのまなざしのありようは、決してかけ離れたものではあるまい。そして「禅堂に動くものなし蝉しぐれ」とは、いわばこうした一瞬の「動くもの」たちの後景としての「禅堂」や「蟬しぐれ」を前景化した句であろう。こうした、後景を前景化させたような句は他にも見られる。

鯛焼きをいだきて帰る年の市    昭和六〇年
秋寒に若きが鯛焼き一つ買ふ    平成元年
鯛焼きを抱きつつ帰る年の市    平成四~五年

一句目と三句目とはほぼ同じ句であるが、間にある「秋寒に」の句はやや印象が異なる。ここで「若きが」と表現したのは、もはや若くはない自分が鯛焼きを買う姿をその後景として意識しているからではあるまいか。そしてその後景とは、そのまま五藤の生活の謂ではなかったか。さらにいえば、その後景を持続させることこそが五藤にとって切実なことであって、だからこそその後景を繰り返し詠んだのではなかったか。

大根を一本提げて農業祭        昭和五五~五七年
 農業祭子等の喜ぶ餅搗きや       平成四~五年

前者は本書巻頭近くに置かれた句、すなわち俳句をつくりはじめた頃の句であり、後者は本書の最後を飾る句、すなわち得子が「作れなくなったのは亡くなる前一年位だったと思います」という時期の直前に作られたとされている句である。十年以上たっても、身体がどう変化しても、相変わらず「農業祭」に行き、それをささやかに楽しみ、俳句を詠む一人の人間の姿を―それが実像か虚像かはともかくとして―「五藤節夫」という物語として僕たちは享受することができる。その物語は、同じようなことを繰り返すことが幸福でありうるということを僕たちに教えてくれる。そういえば、押井守の映画にこういう台詞があった。

いつも通る道でも、違う所を踏んで歩くことができる。いつも通る道だからって、景色は同じじゃない。それだけではいけないのか。それだけのことだから、いけないのか。(「スカイ・クロラ」)

本書を読んでいると、いわば「五藤節夫」という書き手の物語が立ち上がってくる。読み手や書き手や得子によって立ち上げられたその「五藤節夫」はしかし、実像なのか虚像なのかわからない。本書には似通った句が違う年に制作されたものとして収録されているが、少なくとも同じ句を何度も収録するということは通常の句集では考えにくいことだ。だから、これは編集した得子のミスなのではないかと推測できるが、その一方で、決して少なくない数の類句が収められているということを考えると、たんなる編集上の見落としであるといってすませるにはやや不自然な印象が残る。とすれば、やはりこのとおりに制作されていたのだろうか。もしもそうならば、これほど凄みのある句集はあるまい。同じ句を何度もつくるということはあってはならない、という僕たちの常識が五藤の前では吹き飛ばされてしまうからだ。同じような句をつくって何がいけないのか。もっといえば、同じ句を何度もつくって何がいけないのか。―もっとも、この句集が厄介なのは、このような問いを五藤が持っていたかどうかがもはやわからないし、そもそもこのように読むためには本書があくまでも編集上のミスがないことが前提であるのに、この前提が実は甚だ脆いものであるということである。