【61】冬憶うまじ今紅くナナカマド  嶋田摩耶子

 

倉嶋厚『季節ノート お天気歳時記』(東海大学出版会、一九八〇)の一句。本書は「お天気キャスター」である倉嶋が読売新聞に連載していたエッセイ「お茶の間歳時記」をまとめたものである。

新聞に連載された「お茶の間歳時記」は、初めのうちは、高気圧、低気圧、台風、前線など、私の専門の分野の話題が多く、いわば「気象歳時記」であったが、長年の間に、めぐる季節の中で考えた「暮らし」や「人事」についての記述がまじるようになった。本書にも、そのような私の個人的感想が数多くふくまれている。(「まえがき」)

倉嶋は一九八四年に気象庁を退職するまで、気象庁防災気象官、主任予報官、札幌気象台予報課長、鹿児島気象台長などを歴任していたが、本書に収められたエッセイを執筆していたのが札幌気象台勤務時代を含む時期であったため、本書には北海道の話題がしばしば見られる。

北海道の十一月は、中途半端な季節だと、多くの人がいう。すでに美しい紅葉の時は過ぎている。が、雪はまだ降らない。「しぐれ雲」が通るたびに暗い空から冷たい雨が降って、くすんだ茶褐色の荒涼とした野山を濡らす。たまに小春日和になり、残菊がやわらかな光に映える日があっても、すでに別れを覚悟した季節がみせる一瞬の「やさしさ」を、かえってつらく感じる。そして、「いっそ、きっぱりと冬になったほうがいい」と、ある種の「いらだたしさ」さえ覚える。そんなある日、「しぐれ」が雪にかわる。(略)
昔の本で発句の季題を十二か月に分類したのを見ていたら、十月の二十日以後に用いる季題に待雪というのがあった。旧暦十月二十日以後といえば、今の暦の十一月下旬から十二月初めにあたる。そのころに「雪を待つ」気持ちは、どんなものであったのだろうか。昔から「初雪は目の薬」といわれ、宮中には「初雪見参の儀」があり、足利幕府の頃は「初雪御成の擬」があったという。それはたぶん、雪の期間の短い本州の南半分の地域の感覚であり、雪をイネの花にたとえ、心の中では雪に続く春をみていたのにちがいない。北国での〝待雪の気持ち〟とはずいぶんちがうのである。(「待春の季節」)

こうした季節感のちがいは倉嶋にとって興味深いものであったらしく、本書でもいくつかの文章でこの相違についての感慨を記している。表題句もまた、このような北海道の季節感を述べるなかで倉嶋が引いた一句であった。

春の彼岸には、まだ一面の冬景色で、積雪は一メートル近くもあった。霊園では人々はスコップで除雪しないと、お墓参りもできなかった。あれから半年、雪がとけて、どろんこ道になり、やがて木々が芽吹いて、目のさめるような新緑の季節があり、そして明るい夏がやってきた。(略)北国の秋は冬への急傾斜の道を転げ落ちるように過ぎて行く。秋日和の美しさには、いつも、これが最後かと思う切なさがつきまとってしまうのである。
「冬憶うまじ今紅くナナカマド」―トンボの羽根の光る青空をながめながら、ふとつぶやくと、「あなたも読んでいたのね。あれは北国の秋の実感よね」と妻がいった。
これは嶋田摩耶子さんという札幌市在住のホトトギス同人の方の句で、週刊のタウン情報誌で読んだ時、たいへん心打たれたので覚えていたのであった。妻もこの句に惹かれたのは、私たちが人生の秋を過ごしているしるしであろう。(「冬憶うまじ」)

倉嶋はよほどこの句に感銘を受けたのか、別の著作(『季節の366日話題事典』東京堂出版、二〇〇二)でもこの句をとりあげている。この句が倉嶋にとって大切なものであるのは、たんに「北国の秋」を思い「人生の秋」を思うからではあるまい。ここで倉嶋が「あなたも読んでいたのね」という妻の言葉を引き、また自らも「妻もこの句に惹かれた」と記していることは重要だ。倉嶋はこの句を自分一人にとっての大切な一句として認識しているのではなく、妻にとっても大切な一句なのだと―いわば「わたしたち」の大切な一句として認識しているのである。

いや、もう少し正確にいうならば、倉嶋はこの文章を記すことによってこの句を「わたし」の句から「わたしたち」の句へと昇華せしめたのではあるまいか。この操作が露わなのは「妻もこの句に惹かれたのは、私たちが人生の秋を過ごしているしるしであろう」という一文である。「北国の秋」の実感をこの句から読み取りそれを夫と共有すべく話しかけた、という妻の一連の行為の根底にあるものを倉嶋がこのように解釈したとすれば、その解釈には論理の飛躍がある。だが、ここで肝心なのは解釈の正否などではない。倉嶋がたしかにそのように解釈したということ、もっといえば、そのように解釈しようと思ったということこそが重要なのだ。ここにこそ「冬憶うまじ」の句を「わたしたち」の句へと転位せしめようとする倉嶋の意志があるように思われる。倉嶋の妻は本書刊行の一七年後に急逝するが、妻の死にショックを受けた倉嶋はうつ病を発症し精神病棟での長期入院を余儀なくされたという(『やまない雨はない』文藝春秋、二〇〇二)。「冬憶うまじ」の句を「わたしたち」の一句として―それも、「わたしたち」の「人生の秋」の実感を詠った句なのだと記す倉嶋の姿は、倉嶋のその後を思うとき、いっそう誇らかなものに思われてくる。

だが僕はこのように書きながら、一方で僕自身の想像力の限界ということを思う。たとえばここで倉嶋がいう「人生の秋」とはいかなるものであろうか。当時倉嶋は五〇代後半を迎えていたが、「人生の秋」とはしかし年齢ばかりをいったものではあるまい。そしてまた、僕が倉嶋の言葉を理解しかねるのは僕がまだ当時の倉嶋と同じ年齢ではないからだとかいうことでもあるまい。むしろ僕はここに、もっと根本的な問題―想像するということにまつわる羞恥心の問題が横たわっているように思うのである。

柳田國男の『山と人生』の冒頭に据えられた次の文を読むたびに、僕は想像力の限界と可能性ということについて考える。柳田は次のように書く。

今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。

この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつつあるであろう。

いったい、この父親や子ども一人ひとりの心中を察するなどというのはあまりに不遜なことであろう。ただ僕は、「小屋の口一ぱいに」射していたという夕日-柳田の記述によれば父親が見たであろう夕日-については、辛うじて何がしかを想像できるような気がする。それにしても、淡々とした記述のなかにあってこの夕日の部分だけはなにか柳田がこの父親のまなざしを仮りているようで特異な趣がある。これはたんなる柳田の演出ではあるまい。僕には、柳田をしてこのように書かしめたものがたしかにあったような気がしてならない。僕は、この夕日の向こう側にある何ものかを戦々恐々としながら想像する。だがそれは、僕の想像などついに及ばないところにあるにちがいない。

しかしこの絶望的な事態は必ずしも悲しむべきことではあるまい。今敏の監督した映画「千年女優」は、ついに出会うことのできない「鍵の君」なる人物を延々と追いかけ続ける女性の物語であったが、思えば、この映画において主人公の追いかける行為に漂う絶望感が強まるほど、「鍵の君」はいっそう崇高なものへと転じてはいなかったか。僕にとってあの夕日の向こう側にあるはずの「それ」の美しさは、読むという行為がはらんでいる一種の絶望感の反照であるような気がしてならない。

翻って倉嶋のいう「人生の秋」について考えてみると、「妻もこの句に惹かれたのは、私たちが人生の秋を過ごしているしるしであろう」という一文の向こう側にあるものもまた、やはり僕の想像のついに及ばないところにあるものであるように思われる。そしてまた、それゆえにこそ、僕にはいっそう尊いものであるように思われるのである。