金子兜太監修・あらきみほ編著『新訂小学生の俳句歳時記 ハイク・ワンダーランド』(蝸牛新社、二〇〇四)の一句。本書は幼稚園児および小学生の俳句を「子ども俳句」とし、「春の俳句」・「夏の俳句」・「秋の俳句」・「冬の俳句」・「新年の俳句」・「学校で」・「生活」・「遊び」・「家族」の九つに分類して掲載したものである。掲載句の選出方法については「凡例」に次のように記されている。
子ども俳句に当たっては「一茶まつり全国小中学生俳句大会」「日本学生俳句協会」「日本童話祭全国子供俳句大会」「豊っ子俳壇」の刊行物を主な資料とし、「芭蕉祭献詠全国俳句大会」「熱田神宮献納俳句大会」「名古屋短詩型文学祭」「クリスマス全国こども俳句大会」「全国中学文芸作品コンクール」「全国児童生徒俳句大会」「NHK学園全国ジュニア俳句大会」「松山市小中高俳句大会」「徳山市子供俳句大会」「若宮全国俳句大会」などの各地子ども俳句大会の刊行物、「全国俳句ポスト」並びに全国各地の学校の刊行している句集、結社誌の子ども俳句、「インターネット・ハイク・ワンダーランド」など、できるだけ網羅する形で収集に当たった。
金子兜太は序文で「これまでの子ども俳句の中からすぐれた作品を集大成した」と述べているが、いったい「すぐれた」「子ども俳句」とはいかなる作品をいうのであろうか。本書には「俳句の作り方」と題されたコラムが収録されているが、そこには次のようにある。
子ども俳句で一番大切なことは、子どもが感じた本当のことを、五・七・五というリズムある言葉にすることでしょう。
五文字・七文字・五文字のリズムで言葉を使うようになれば、世界中で一番短い「俳句という詩」が作れるのです。
大人が思う俳句らしさは大人になってから覚えればいいのです。
「すぐれた」「子ども俳句」とは「子どもが感じた本当のことを、五・七・五というリズムある言葉にする」ことに成功している句のことをいうであろう。では、「子どもが感じた本当のことを、五・七・五というリズムある言葉にする」とはどのような行為をいうのだろうか。たとえば次の句を見てみたい。
おとうとの話しかけてくる目がすきだなあ 黒崎晋
この句について本書では「晋君はおとうとの『話しかけてくる目』がかわいくて大好きです」と述べられているが、たしかにこの句は「おとうとの『話しかけてくる目』がかわいくて大好き」であるという「子どもが感じた本当のこと」を「五・七・五というリズムある言葉」にしているように思われる。とりわけ、この句が五・七・五を基調としながらそうなっていないあたりのたどたどしさと、「すきだなあ」という、感情をあからさまに表出したかのような措辞に「子どもが感じた本当のこと」らしさを感じる。ならば、次の句はどうだろうか。
正月の母の煮物が好きだなあ 松本尚美
この句は『小学生の俳句歳時記』の収録句ではない。同書刊行年と同じ二〇〇四年の「おーいお茶新俳句大賞」において佳作特別賞を受賞した四二歳の女性の句である。僕は両句に類型的表現が見られるということを否定的に評価したいのではない。僕はたんに、偶然にも松本の句に突き当たってしまったがために、黒崎における「すきだなあ」という措辞に対して僕が感じたはずの「子どもが感じた本当のこと」らしさとはいったい何だったのかと戸惑っているのである。そしてここにおいて、「子どもが感じた本当のこと」なるものの内実がいささか怪しくなってくるようにも思うのである。
本書には既視感のある句がいくつも収録されている。
敬老の日の祖母の肩すこしやせ 平野博子
夕やけにそまってかあさん小さくくる 広江進
ここでもう一度「おーいお茶新俳句大賞」を引き合いに出せば、この日本最大級の投句数を誇る俳句コンテストにも小さい祖母、小さい母の句はしばしば見られる。
母の手が小さく見えた寒い冬 織部晴美(二〇〇三年佳作特別賞 一六歳)
ふと見ると小さくなったな母の肩 泊奈緒美(二〇〇四年佳作特別賞 一五歳)
母の腕組んで細いと気づく今 平本博子(二〇〇四年佳作特別賞 一七歳)
比べるとぼくより小さい母の足 ジョーンズ・マーク(二〇〇六年佳作特別賞 一二歳)
母の背に小ささを覚えた十七の冬 倉田華穂(二〇〇六年佳作特別賞 一七歳)
節分の豆の数だけ母縮む 林亜優(二〇〇六年佳作特別賞 一八歳)
僕は本書の収録句に類想句が存在することを批判しようとは思わない。これらの句はきっと、「子どもが感じた本当のこと」を詠んだ結果として生まれたものにちがいない。それはまた、「おーいお茶」の句にしても同様であろう。僕にとって興味深いのは、「本当のこと」を詠んだはずのこれらの句がどうして類型化を免れなかったのかということである。その要因として、ひとつには生活の範囲が大人に比べるとどうしても限定的にならざるをえない子どもの場合、どうしてもその作る俳句が似てきてしまうのだということもあるだろう。けれども、生活体験が似てしまうから俳句も似てしまうというのは、何か事態の本質を取り違えているような気がしてならない。むしろ、異なる生活体験であっても、俳句にすることによって類型的なものへと転じているのだと考えることはできないだろうか。
たとえば先の黒崎の「すきだなあ」という表現は、本当に黒崎の感じた「本当のこと」を表しているのだろうか。黒崎の「すきだなあ」と、松本の「好きだなあ」は、むろん本来的には異なるものであろう。しかしそのどちらもが「すきだなあ」「好きだなあ」という表現として結果してしまっているのはどういうことなのだろうか。これはたんに作者の力不足ということではなく、そもそも言語化するということ、あるいは俳句を詠むということがある種の「均し」をはらむ営みであるためではなかったか。あるいはまた、祖母や母を詠んだ句に類型化が生じてしまったのも、俳句として表現する過程である種の「均し」が行われるためではあるまいか。
この「均し」はまた、別の形でも見ることができる。
さんびなあ北のおぐがらかぜっこふぐ 山田一人
この句について本書では次のようにある。
「さんびなあ」「かぜっこふぐ」などの地方のことばはどんどんつかってください。ほかの地方に住んでいる人にも「とってもさむそうね、北の国のことばなのかしら」と、よく分かります。
けれども、僕にはこのような評言が何かを見落としているような気がしてならない。そもそも、子どもにとって、俳句に方言を用いるということは、いわゆる標準語で俳句を詠む場合よりもはるかに高い表現者としての意識を要請する行為ではなかろうか。じっさい、僕たちは俳句を詠むときに表題句のように徹頭徹尾方言で詠みとおすことがどれだけあるだろうか。本書には方言を用いた句が他にも見られるが、もちろんそうした句が少数であるのはいうまでもない。僕は、子どもが方言で俳句を詠むことについて、不自然でよくないことだなどと言いたいのではない。方言で詠まれたこうした作品を「すぐれた」「子ども俳句」として僕たちが読んでしまうという事態がいかなる前提のもとに生じるものであるのかということにもう少し慎重でありたいと思うのである。
あいうえおかきくけこであそんでる ささ木じゅん
この句については「友だちとあそんだりけんかしたりしながら、大切なことをまなんで、大人になってゆきます。(略)じゅんさんは文字の『あいうえおかきくけこ』であそんでいます。勉強もあそびながらやるとたのしいのですね」とある。思えば、子どもはこうした「勉強」や「遊び」を通じて自らの言葉を五十音図という文字と音の体系に基づいて認識していくのであった。いみじくも本書は「小学生の俳句歳時記」と銘打たれているが、山田の句もまた学校教育において行われるこうした「均し」の過程の後で生まれてきたものであることを忘れてはならないだろう。評者は「ほかの地方に住んでいる人にも『とってもさむそうね、北の国のことばなのかしら』と、よく分かります」と述べているが、読み手がそのような印象を持ちうるとすれば、それは方言で詠んでいることが誰にでもわかるように、自らの言葉をうまく均して詠んでいるからであろう。その意味では、この句はいわば、「方言で詠んでいるのに」誰でもわかるのではなく、むしろ「わかるように詠んでいるから」誰でもわかるのである。