【66】岡惚で終りし恋や玉子酒   日野草城

 矢野誠一『落語 ―長屋の四季』(読売新聞社、一九七二)の一句。矢野誠一といえば東京やなぎ句会のメンバーの一人であり「徳三郎」なる俳号を持っているが、本書「あとがき」では自身と俳句とのかかわりについて次のように書いている。

 数年前に、遊び仲間と、ひょんなことから俳句をはじめたのだが、むずかしいものだ。毎月一回の句会に出席するつど、五句や六句は投句しているのだから、苦しまぎれからのものではあっても、数だけはたまっている計算になるのだが、とてもひとさまにお目におかけられるようなものはない。(略)
 ただ俳句をはじめたおかげで、落語をきくとき、落語ではなく、落語家のそなえている季節感覚がより気になるようになった。世のなかから、季節感が、だんだん失われつつあるときに、いや、そういうときだからこそ、落語家は、落語という、われわれにとって大切な文化遺産のもつ季節感を、はぐくむことに真剣であってほしい。

 東京やなぎ句会が新宿の鮨屋「銀八」で結成されたのは一九六九年。本書上梓の三年前のことで、現在では結成から四〇年以上の年月を重ねた同会も、このときはその活動がまだ始まったばかりであった。本書は矢野が落語に見られる季節感について俳句をまじえて綴ったエッセイ集である。
 落語を聴いていてなんだか寂しくなることの一つに、はなしに登場する地名がことごとく都市のそれであるということがある。たとえば「黄金餅」で下谷山崎町の貧乏長屋から麻布絶江釜無村の木蓮寺へ向かうくだりなど、立て板に水を流すがごとき口上の見事さはわかるけれど、群馬に生まれ育った僕は腹の底から了解したという気にはならない。立川談志が現在の地名に直してやってみせたこともあったが、そのコンセプトは理解できてもそのおかしみが腹からわかるはずもなかった。そしてこの寂しさはやがて聴き手としてのコンプレックスへと繋がっていった。実際、「目黒のさんま」を聴くときに、目黒が海から離れた場所であることをわざわざ説明されなければならない自分の、なんとみじめだったことか。上方落語ははじめ何を言っているのかすら聞きとれない状態だったし、あの猥雑さに近寄りがたいものを感じていたから、ほとんどファンタジーに接するような感覚であって、この種のみじめさを抱くことはなかった。けれど、東京落語は言葉としてもまた感覚としても多少理解できるところがあっただけに、むしろ理解できない部分がどうにも気になってしかたがなかった。だから、古今亭今輔が群馬出身だと知ったときには嬉しくもあったが、その一方では、今輔の芸風を知るにつれ「群馬出身なのに」という嬉しさは「群馬出身だから」という絶望とないまぜになってもいったのである。
 同じようなことは、落語における季節感についてもいえる。矢野は正岡容の落語評論、落語家評論について「まことに俳句的な感覚が内蔵され、大きな位置をしめていた」と述べているが、その正岡の落語評論とは次のようなものだ。

 この人(八代目桂文楽―外山注)の「鰻の幇間」に大正初年の旧東京のあぶらでりする街々の姿をば呼吸できる人、「花瓶」のお国者の侍がしびん片手に得意満面、馬喰町辺りの旅籠さして戻り行く後姿に舂いてゐる暮春の夕日の光りを見てとれる人、さては「馬のす」の釣竿しらべてゐる主のたゞずまひに軒低く天井暗かりし震災以前の東京の町屋の気配を宛らに目に泛べられる人。
 それらの人たちは悉く、前述のこの人への私の言葉の過褒に非ることを、即座に首肯して呉れるだらう。(『随筆寄席風俗』三杏書院、一九四三)

 もちろん、正岡はここに挙げられているような人に対してのみこの文章を記しているわけではあるまい。このように書くことで、八代目桂文楽という落語家とその落語の気味を、文楽を知らない人にも広く伝えようとしているわけであろう。だがこうした評論が文楽を聴くときの僕の羞恥心をいっそう育みもしたのである。むしろしびんを片手に得意満面の「お国者の侍」にこそ近しいものを感じる僕にとっては、いわば「中央」の文化から外れた人間の登場するはなしに魅かれるものがあった。「化け物使い」の冒頭に出てくる杢助、「木乃伊取り」で遊び呆けた若旦那を連れ戻そうとする清造、「棒だら」の田舎侍など、決して格好良いとは言えず、また愚かに見えて狡猾なところもあるこうした田舎者のありようこそ、僕の親しみの対象であった。
落語のなかにはこうした田舎者が登場する話のほかに、舞台が田舎に設定されたはなしもある。そのひとつが甲斐の山中を舞台とする「鰍沢」であろう。身延山参詣の途中で雪のため道に迷った江戸商人が、一夜の宿を借りるために立ち寄った民家で美しい女(お熊)と出会う。よく見ればこの女は吉原の熊蔵丸屋にいた花魁で、心中未遂の果てに恋人とこの地で身を隠すようにして暮らしているのだという。江戸商人の男はこの女のかつての客であった。男は宿代として三両をお熊に差し出す。お熊は男が金を持っていることを知るや、しびれ薬を入れた玉子酒を飲ませて殺害しその金を盗もうとする―というのがおおよそのあらすじである。この話に登場するのは吉原の花魁とその恋人のなれの果て、そして江戸商人の三人であって、舞台こそ田舎だがあくまでもはなしに通底する美意識や論理は「中央」のそれである。たとえばお熊とこの山中に暮らす恋人が現在は熊の肝を売っていることを聞いた江戸商人が「狂言作者がこのことを聞きゃ見逃さない」と言い、「ひび、あかぎれをかくそうため、亭主は熊の膏薬売り…」などと芝居の台詞めかしてつぶやくなどというのはそれを最もよく表していようが、見方を変えれば、このような美意識や論理をもって語られるのでなければ、このはなしはさしておもしろくないのかもしれない。本書で紹介されている榎本滋民の「鰍沢」の解釈には興味深いものがあるが(『落語小劇場』(寿満書店、一九七〇)所収)、こうした解釈が可能なのも、このはなしが田舎を舞台としていても決して「田舎者」の話ではないからであろう。榎本は江戸商人が差し出した三両という金額に注目して次のようにいう。
 
 あるときぼくは旅人が三両という金を出した人情を推理してみた。偶然かもしれないが、最高級の女郎の揚げ代一両二分の二回分である。初回だけで別れた全盛のおいらんが、落ちぶれ果てて目の前にいる。裏を返すとき二回分払えば三回目すなわちなじみとしての待遇を受けて床入りのかなう便法もあり、これを裏なじみというのだが、旅人のからだを一瞬そんな意識がよぎりはしなかっただろうか。
 もしそうだとしたら、それを悟ったお熊が感じたものは、震えるほどの屈辱であるはずだと考えたぼくは、旅人殺害の動機を金目当てでないところにおきたくなった。

 さてようやく本題に移ろう。表題句は矢野が「鰍沢」について語った箇所の最後に引用されている四句のうちの一句である。

 『鰍沢』のお熊は、旅人に玉子酒をすすめるに際し、地酒のいやな匂いを消すからというのだが、なるほどそういう効用もあるのかもしれぬ。だが、ここはやはり、しびれ薬をさとらせぬため、あえて玉子酒にしたというのが筋であろう。また、旅人の方も、旅先の酒はそれでなくとも気をつけるところなのに、なんの疑いもはさまなかったのは、ただただ相手がかつての吉原の花魁と知った気のゆるみからにちがいない。(略)
  岡惚で終りし恋や玉子酒    日野草城
  玉子酒瞋恚のほむら燃しゐる  田中紫江
  卵酒艶なることもなかりけり  青木月斗
  愛憎の遠し二タ夜の玉子酒   山口英二

 この四句のいずれもが「鰍沢」の雰囲気に相応しいのは、矢野の選句の妙もあろうけれども、そもそも「玉子酒」という言葉がどこか艶なる趣を持っているためではなかろうか。たとえば手元の歳時記を開いただけでも「かりに着る女の羽織玉子酒」(高浜虚子)「玉子酒すすめて君を帰さじな」(石原初子)などの句がたちどころに見つかるのである。矢野の引いた草城の句は第一句集『花氷』(京鹿子発行所、一九二七)に収められているが、同書には玉子酒の句がほかにもある。
 
酔へる眼も年増盛りや玉子酒
玉子酒おのが眉目に慊らぬ
閨門に洩るゝ大事や玉子酒
なんぢの目とろんことなんぬ玉子酒
わぎもこのはかなく酔ひぬ玉子酒
驕瞋の眉美しや玉子酒
謀られてくやしく酔ひぬ玉子酒
  対面共語心距千山
対ひ居て心は知らじ玉子酒

 矢野は玉子酒について「酒精分を取り去ってしまうためか、酒を煮たててしまい、玉子と砂糖を加えるのだから、どう考えても下戸のためのもの」と記しているが、草城の「玉子酒」はどうもアルコール分が抜けていないようだ。これらの句にどこか哀れさがつきまとうのは、玉子酒が風邪などで体が弱ったときの滋養のために用いられるからであろう。そういえば落語では登場人物が病に臥せっているはなしのマクラで色気のある病の例として「男の風邪」が挙げられることがある。これは熱のために目が潤むからで、たとえば古今亭志ん朝は「崇徳院」のマクラで、風邪を引いた男が床に起きなおってぼんやりしているところへ友達がやってきて「おお、どうだい」「ああ、熱があっていけねえや」というやりとりを「芝居の世話狂言の二枚目になったような了見」などとひやかしていた。とすれば玉子酒の句が哀れながらも―いや哀れであればこそそこに色っぽさが加わっているのもわかるような気がするのである。