【67】湯豆腐や。持薬の酒の一二杯  久保田万太郎

池田弥三郎『私の食物誌』(河出書房、一九六五)の一句。池田は折口信夫に師事し民俗学や国文学研究に携わった人物である。池田は一九一四年に銀座の天麩羅屋「天金」に生まれた。本書はそうした池田が食べ物について綴ったエッセイ集である。
池田が綴った自らの体験談は、そのまま大正時代や昭和の初めの頃の東京の食に関する風俗、習慣の一面をとらえたものとなっているが、たとえば以前「スピカ」でもとりあげられていた橋本夢道のあんみつの話も本書に登場する。

みつ豆は、大正時代には、まだ「店」で売られる食物ではなかった。
腰に鈴をつけた若い衆が横町に売りに来ると、店の者たちが、台所からドンブリを持って出て行って、五銭十銭と買ってたべる食物だった。(略)
昭和になってから、デパートの食堂や、町のしるこ屋でも売るようになり、明治製菓ではカンヅメのみつ豆まで売り出すようになった。あんみつなども昭和の六、七年ごろではなかったか。わたしは銀座の若松にみつ豆にあんをのせたのがあると聞いて、早速大学の友人とたべに行ったことを覚えている。
それからやがて「みつ豆はギリシャの神も知らざりき」という、月ヶ瀬の、有名なキャッチフレーズが人々の口にのぼった。

本書はもともと東京新聞に連載していた記事をまとめたものであったが、このみつ豆の話が新聞に掲載された後で池田に訂正の手紙が届いたらしい。池田は、まず楠本憲吉から「みつ豆は」のキャッチフレーズは「みつ豆を、ギリシァの神は知らざりき」(表記は『私の食物誌』記載のママ)であること、そして森谷佐三郎からは大正の中ごろ水天宮のそばや日本橋の笹勝ずしの近くにみつ豆の店があったという指摘があったと補足している(池田はさらに浅草にも「みつ豆ホール」と呼ばれた場所があったとも記している)。となると、大学の友人と食べに行ったという若松の「みつ豆にあんをのせたの」(すなわち「あんみつ」)の話の信憑性もいささか危なっかしくはあるが、この話が正しければ夢道が銀座「月ヶ瀬」であんみつを開発・商品化した時期(昭和一三年頃)よりも前のことになるが、夢道があんみつの開発者として今日知られているのはどのような事情によるものであろうか。

さて、表題句は一九六二年、すなわち久保田万太郎が亡くなる前年に詠んだ句である。その晩年に交流を持ち、また万太郎についての著作もある池田だが、本書にも万太郎にまつわるエピソードがいくつか登場する。とりわけ印象深いのは、文学座の竜岡晋が『春燈』に書いたという次の一文について述べた箇所だ。

先生の手帖に黄色くなった新聞の切抜きが一枚挿んであった。なんだと思ったら、〝おいしいコロッケのつくり方〟

竜岡のこの文章を引いた後で、池田は「コロッケでこんなかなしい話がまたとあるだろうか」と述べる。川名大は万太郎の最晩年の句「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」について「妻と別れた晩年は、赤坂の愛人の元で同棲し、ようやく家庭的な暖かさを得たのも束の間、愛人の急逝に会い、ただ一人取り残される」という「孤独地獄」のなかにあらわれた「かすかな救い」を見出しているが(『現代俳句』下巻、筑摩書房、二〇〇一)、万太郎の晩年を知る池田がいう「かなしさ」もこうした孤独を想起してのものであったろう。川名はまたこの句に「自分で仕度した湯豆腐の前にぽつんと坐って、湯豆腐ができあがるのをぼんやりと眺めている」さまを見ているが、手帖に挿みこまれたままの古びた「おいしいコロッケのつくり方」からも、演劇界の大御所であり美食家でもあった万太郎が自分で「おいしいコロッケ」を作ろうとしていたという健気さのなかに万太郎の抱えていた孤独の深さが思われるのである。
はからずも万太郎の遺句集となった『流寓抄以後』(文芸春秋新社、一九六三)をひもとくと、「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の句を含む一九六三年の章は「一子の死をめぐりて」と題された十句から始まる。この十句に続いて登場する「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」「鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな」などの句に、「孤独地獄」のなかで到達した万太郎の境地を―最晩年の万太郎の到達点を―これらの句に見るのは誤りではあるまい。しかし、僕はまた別の見方もしてみたいと思う。

芥川龍之介が万太郎の第一句集『道芝』(友善堂、一九二七)を「久保田氏の発句は東京の生んだ〈歎かひ〉の発句」だと評したように、『流寓抄以後』のそれに限らず、万太郎の句には哀感の漂う人事句が少なくない。だがその一方で、〈歎かひ〉と表裏をなすかのように、人間への親愛に満ち、生を言祝ぐ句も見られる。『流寓抄以後』から引いてみよう。

花柳章太郎に
一陽来復の雪となりにけり
 伴田英司君の結婚を祝いて……英司君は亡き友田恭助の忘れがたみなり。
しらつゆのむつみかはしてあかるしや
 作文の点よくなりし夜学かな
東京の燈火したしむべき季節
水谷八重子、九死に一生をえ、しかもその一生をフルにつかはんとなり。この分では、七十、八十まで生きるであらうこと必定、めでたしともめでたし。
秋晴の底ぬけばれとなりしはや
葱汁は熱きほどよし啜りけり
篠原治女史のむすめさん良縁をえたり
ものゝ芽のわきたつごときひかりかな
  五所平之助の妻女、店を開くときく
長岡のモダン茶店の五月かな

これらはみな最後の二年間に詠まれている。とりわけ「長岡の」の句は同書の最後を飾るものであるが、万太郎の遺句集がこうした句で終わっているのは、たとえ偶然であったにせよ、万太郎の句の本質がむしろ〈歎かひ〉を反転させたところにあったことを示唆しているような気がしてならない。

ここであらためて表題句に戻ると、この「湯豆腐や。持薬の酒の一二杯」は『流寓抄以後』に収められてはない(なおこの句の表記は折口に師事した池田によるものであろう)。同書の収録句について安住敦は「後記」で次のように述べている。

この句集は、昭和三十三年八月から、同三十八年五月、その死の当日まで約五年間の作品集である。このかん、毎月主宰誌「春燈」その他の新聞・雑誌類に発表した句数は累計七百七十余句に上っている。この句集に収録した句数がそれより下回っているのは、それがこの作家の句集を編む場合のいつもの例になっているように、既発表の作品について自らの手によるきびしい篩がかけられているためである。その篩をかけたあとの作品についても、しばしば改作を試みていることはこれまたこの作家のならいである。しかし、この句集の中で、そうした操作がなされているのは、昭和三十三年から三十五年までの全作品と、同三十六年の前半、および三十八年の一部についてだけである。その期間以外の作品については残念ながら未整理のままここに収録した。

したがって、死の前年にあたる昭和三七(一九六二)年の句については句集収録にあたって取捨選択や改作などの作業を行っていないということになる。とすれば、「湯豆腐や。持薬の酒の一二杯」は収録しそびれたものであろうか。『私の食物誌』には次のようにある。

もう、二年前のことになる。昭和三十七年のきょうのことだ。久保田万太郎さんの誕生日のお祝いが銀座の辻留で、あった。そのとき久保田さんは京都の樽源さんに贈る俳句を用意して来られた。それが、
 湯豆腐や。持薬の酒の一二杯
という句であった。
 花柳章太郎さんのすすめで、久保田さんはそのあとに「寒うおすな」と付け加え、小唄が出来上がった。同席しておられた山田抄太郎さんが、あいにく手を悪くしておられたので、柴小百合さんがかわりに三味線をとって、即席の、「口述作曲」が始まり、たちまちにして、万太郎作詞、抄太郎作曲の、小唄「湯豆腐」が出来上がった。

樽源(たる源)は万太郎も「たる源の桶のかろきに秋立てり」(『流寓抄以後』)と詠んでいるように、京都の桶・樽屋である。この句はたる源の湯豆腐桶にちなんで万太郎が贈ったものであろう(ちなみにたる源の湯豆腐桶は豆腐とともに酒をあたためられるようになっており、その徳利にこの句が記されている)。

この句はまだ一子の亡くなる前に詠まれたもの。ならば、この「湯豆腐」とともに酌む「一二杯」の酒を「持薬」とうたう心根とは、終の棲家を恋人と安らかに過ごそうとする祈りを潜めてもいようか。湯豆腐に「いのちのはてのうすあかり」を見出す前の、しかしたしかに「いのちのはてのうすあかり」を見出すまなざしへと繋がってゆくはずの、生への哀しくも安らかな讃歌である。