【68】虹立つや戦争しない国が好き  相澤樹來

2014年度の国民文化祭における俳句大会(奥の細道全国俳句大会)「小・中・高校生の部」で文部科学大臣賞を受賞した一句。結論からいえば、僕はこの句をおもしろいと思う。この句の表出する気分のようなものに、僕は何より得がたいものを感じるからである。だから、これから書くことは決して皮肉ではない。

というかこの句がまずいとしたら中七下五がほとんど何にでも合わせられるフレーズになってしまっているところでしょう。「今日この頃の酒の味」とか「雨本降りとなりにけり」とか。

ツイッター上で関悦史(@Seki_Etsushi)はこの句についての矢野貴子(@rinndoyano)の発言(「虹立つやじゃなくてもいいような気がします」)を受けてこのように述べているが、僕もその通りだと思う。けれど、「中七下五がほとんど何にでも合わせられるフレーズになってしまっている」からこそ、むしろこの句は優れているのではないだろうか。この句は「虹立つや戦争をする国が好き」でもいいし、「虹立つやコンビニのおでんが好き」でもいい。この句の「好き」という言葉の強度などその程度のものであろうし、もしもそうでないならば僕にはとても気持ちが悪い。そして僕は、たとえ無意識的にであれその程度の強度の言葉で書かれてしまったこの句を抱きしめずにはいられないのである。

先頃イスラム国に加わろうとした大学生についての報道があったが、僕は彼の態度を奇妙なものだとは思わない。何となく戦争に行って何がいけないのだろう。だって、「戦争」なんて、僕たちにはこれまでも(今も)その程度のふとした気分で考える対象だったのではなかったか。現に、今だって「戦争しない国が好き」という言葉が「ほとんど何にでも合わせられるフレーズになってしまっている」ような強度で書かれた句が称賛され消費されているではないか。この句を称賛する鉄面皮をもってすれば「虹立つや戦争をする国が好き」を称賛することだってたやすいことだ。そして、この種の反転がこの国においては実にたやすく起きうるということを、僕たちはじゅうぶん知っているはずではなかったか。

けれど、そういう状況のなかで生きてきた僕たちにとって、この鉄面皮の倫理はまた、愛着の対象でもある。じっさい、この種の反転は僕たちに捨てがたい楽しさを与えてくれるものではないだろうか。そして「戦争しない国が好き」が「戦争をする国が好き」へと反転し、さらには「コンビニのおでんが好き」へと転じていくときの楽しげな気分―これらを同一平面上に並べ、積木遊びのように組み換えていくときの楽しげな気分―こそ、僕らに親しいものではなかっただろうか。

少し前のことになるが、木内一裕原作の映画「藁の楯」を観た。この作品のテーマのひとつは「正義とは何か」ということにあったように思う。だが、殺人犯の護送中に同僚を殺された警察官「銘苅一基」がラストシーンでその同僚の息子とともに歩いている姿からは、むしろ「正義とは何か」などという抽象的な問題にけりをつけずに生きていこうとしている彼の姿勢がうかがわれた。銘苅は一人の殺人犯を護送するために多くの犠牲者を出し、また護送されている犯人が最後まで全く罪悪感を抱いていないかのようにふるまうために、自らのうちにある「正義」について終始問い直しを迫られている。もちろんこうした問い直し自体は重要なことなのだが、一方で、僕たちはそのように問うことなしに生きていくことだってできる。その意味では、結論を先送りにしていま・ここで同僚の息子と笑いながら生きていくことを決断した銘苅の姿は厚顔無恥なものでありながら至極真っ当なものであると思う。だが、そのような倫理のありかたは、同時に、やはり映画の最後で「どうせ死刑になるならもっと殺しとけばよかった」と悪びれずに言い放つ犯人のそれと、本質的にはさして変わらないものであるだろう。銘苅の生きかたが真っ当ならば、あの犯人もまた至極真っ当に生きているのである。

ここでふたたび俳句の話に戻すと、いまはこうした倫理の受容されやすい時代なのではあるまいか。あれこれいう前に、とにかくいま・ここで俳句を詠むのだというような姿勢こそ、いまの僕たちの俳句に対する典型的な姿勢であるような気がする。俳句に対峙するとき、そこに高尚な問いを持ち出すことになんとなく気恥ずかしさを感じるのは僕だけだろうか。だが僕たちはまた、俳句を高尚な問いに結びつけて語り、詠んでいた時代のことも知っている(むしろ、知っているからこそ、僕たちはそうした姿勢をうっかり目にしてしまったとき、今更の感じを抱くのかもしれない)。たとえば、僕たちにとって「草田男の犬論争」は懐かしくも楽しい思い出ではあるが、だからといって、あのような論争が大手をふってまかり通るような時代に戻りたいとは思わないだろう。だから、こうした状況において、「ほとんど何にでも合わせられるフレーズになってしまっている」ような強度をもって書きつけられた「虹立つや戦争しない国が好き」が登場したのはごく自然なことであったと思う。

一方で、先に挙げたようにこの句についてはツイッター上で矢野貴子(@rinndoyano)も「虹立つやじゃなくてもいいような気がします」と述べていた。では、「虹立つやじゃなくて」何がよいのだろう。「爽やかや戦争しない国が好き」「ヒヤシンス戦争しない国が好き」「秋の暮戦争しない国が好き」―。しかしこの作業のナンセンスさといったらどうだろう。そして同時に、この作業の何となく楽しさを帯びてくる感じは何なのだろう。たしかにこの句は「虹立つやじゃなくてもいい」からつまらないのかもしれない。だが、僕はむしろ「虹立つやじゃなくてもいい」からこそ、この句は楽しいのかもしれないと思うのである。この句の何より優れているところは、実は、一字たりともゆるがせにできないところがないところなのだ。いわば、この句はこの句でなくてもよいからこそ、何より得がたい一句になっているのだ。そして僕は、このような楽しさだけでできているような句を僕たちがたやすくつくれるなどとは思わない(もちろん僕はこれを皮肉や詭弁のつもりで言っているのではない)。

僕たちはときに、ある句について、言葉が「動く」とか「動かない」とかいうことに拘泥することがある。けれど、言葉が「動く」句がなぜいけないのかを問うことをあまりしないのはなぜだろう。動いたからなんだというのだ。動かしたいなら動かせばいいのだ。なぜその一句は書かれた瞬間にすでに完成していなければならないのだろう。極論すれば、そこに書かれた一句はインクの紙魚にすぎない。もちろん、そうした紙魚にこそ拘泥する精神もまた尊重すべきものであろう。けれど、こと「虹立つや戦争しない国が好き」を読むうえでは、そのような拘泥はこの句をつまらないものにする気がしてならない。たしかにこの句は言葉が「動く」句だ。だから、一句の完成度の高さを目指すことが作家としての高みに歩を進めることだとすれば、この句はいかにも薄っぺらでふしだらなものに見えるにちがいない。でも僕はこの句の表出するそうしたふしだらな気分にこそ共感する。そのふしだらさこそ、本当は僕たちがその鉄面皮の倫理をもって愛し親しんできたものであると思うからだ。

そもそも、「動く」とか「動かない」という言葉をもって行う、僕たちにとってなじみ深いこの批評のありかたこそ何よりふしだらなものである。このような批評行為は、一句はときに書かれた時点ではまだ完成していないことがあるということを前提としている。とすれば、僕たちにとって、ふしだらに句を詠みふしだらに読むことこそ自然なことなのではあるまいか。そのような僕たちにとって、一字たりともゆるがせにできないところがないこの句こそ、本当は僕たち自身が抱きしめるべき俳句なのだ。