高木俊朗『遺族―戦没学徒兵の日記をめぐって―』(出版協同社、一九五七)の一句。巻末の著者略歴によれば「昭和十六年、日本映画社に入社、陸軍報道班員として、第三句空軍に配属 ビルマ、タイ、マレー、スマトラ、ジャワ、仏印に従軍、ついで第六航空軍に転じ、終戦に至る」とある。第六航空軍といえば知覧から沖縄へ向けて出撃した振武隊などの特攻隊を指揮していたことで知られている。終戦間際に第六航空軍の取材にあたっていた高木は、「沖縄作戦の間の、陸軍の特別攻撃隊の基地となった」知覧の地で、「昭和二十年四月六日から、六月二十二日、沖縄の抵抗の終った日までに、十回の大きな特攻総攻撃がおこなわれた」のを間近に見ていたのである。本書は高木が第五五振武隊員として出撃した鷲尾克己の日記をまじえながら、鷲尾とその遺族について綴ったものである。
出撃前夜、高木は兵舎で特攻隊員たちに自分の報道用のノートをまわし、それぞれの経歴や感想などを記してもらっているが、鷲尾もまたそのノートに次のように記している。
我がゴーヂァン・ノット此処に断つ。
個と全との矛盾は我が心情中に解決し得たとは言ひ得ず。靖国神社の奥殿にて さぞや恥しからむ。
我は永生を信ず。今後沖縄の戦局は 我等が永生。我が友等の我が思ひ出は 我等が永生。大きくは今後日本の歴史の流れの中に 我等は生きむ。我が二十三年の一挙手一投足 すべて何処かに生きてあらむ。
「ゴーヂァン・ノット」、すなわちゴルディアスの結び目(Gordian Knot)を断ったという鷲尾だが、一方では「個と全との矛盾は我が心情中に解決し得たとは言ひ得ず」とも述べている。鷲尾は一高在学中に召集を受けたが、本書には(一九五六年に公開された高木の記録映画「日本かく戦えり」への反響として)一高校長であった安倍能成の次の言葉がある。
沖縄海上で、決死隊の飛行機がひらひら飛んでは、矢つぎばやに米軍の高射砲におとされるのを見て、私は、決死隊の一人に選ばれた鷲尾という一高生が、死ぬる前に帰休を許されて逢つた時、まだ決心がつきませぬ、といつた時の表情を思い出さずにはいられなかつた。
鷲尾の「決心」ははたしてついたのだろうか。鷲尾とおなじ日に知覧から出撃した学徒兵の一人に上原良司がいる。後に戦没学徒兵の遺稿集「きけわだつみのこえ」の巻頭を飾ることになる上原の「或ひは自由主義者といはれるかも知れませんが、自由の勝利は明白な事だと思はれます」という言葉は、先の鷲尾と同じく出撃前夜に高木のノートに記されたものであった。「自由の勝利」を断言した上原であったが、一方では「一器械である吾人は、何もいう権利はありませんが、ただ願はくは、愛する日本を偉大ならしめんことを、国民の方々にお願ひするのみです」とも記しており、「個と全との矛盾」を抱え込んでいる様子がうかがわれる。
特攻隊員の心情についてはこれまでに多くの議論があり、安易な推測の許されるものではあるまい。ただ、本書には出撃直前の特攻隊員の様子が次のように記されている。
黒木隊は、ひとかたまりに集まっていた。学徒出身の少尉たちである。急に、京谷少尉が元気な声をだした。
「歌いましょう、一つ―」
歌いたくてたまらないといった調子で、にこにこしている。
「よし、やろう」
と森少尉が応じた。みんなは、丸く輪をくんだ。
「『男なら』をやろう。一、二、三!」
京谷少尉が音頭をとった。黒木少尉、三根少尉、朝倉少尉、上原少尉、森少尉、鷲尾少尉、―みんなが手拍子をとって歌った。(略)
出発のまぎわに、声をそろえ、手拍子をうちながら、歌っていたのは、黒木隊の少尉たちだけであった。よそ目には、これから競技にでも行く人のようであった。
男なら 男なら
離陸したなら この世の別れ
どうせ一度は 死ぬ身じゃないか
目ざす敵艦 体当り
男なら やって散れ
歌は拍手で終った。
黒木少尉は時計を見た。六時十五分。―予定の時刻である。
彼らはなぜ歌ったのだろう。本書には彼らが前夜も「炭坑節」の替え歌や「花なら桜」を歌う様子が書かれているが、「個と全との矛盾は我が心情中に解決し得たとは言ひ得ず」と書き「自由の勝利は明白な事だと思はれます」と書いた鷲尾や上原が「よそ目には、これから競技にでも行く人のよう」な態度で「目ざす敵艦 体当り」と歌っていたというのは、決して奇妙なことでも軽薄なことでもあるまい。彼らにとって声を合わせて歌うということがどれだけ切実な行為であったか。自らに残された時間のぎりぎりいっぱいのところで、自らの抱えた矛盾に対して理屈ではなく身体のほうから解決の糸口を探ろうとしたとき、彼らは合唱という行為を見出したのではなかったか。
ところで、この場面に登場する隊員の一人に「三根少尉」という青年がいる。彼こそ表題句の作者三根耕造である。三根の句は『特攻隊遺詠集』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編、PHP研究所、一九九九)にも収録されている(ただし表記が「八重路のつばくらめ」となっている)。『特攻隊遺詠集』によれば「56振武隊員を命ぜられ、知覧に前進、同飛行場にて5月16日試験飛行中(三式戦)不時着、重症を負い、知覧陸軍病院入院、翌17日戦傷死。名簿には不記載。」とある。とすれば三根は鷲尾や上原の亡くなった五月一一日の出撃時に何らかの事情で生き残ったのである。その後の数日間における三根の心中を知るすべはないが、はたしていかなるものであったろう。
三根がこの句を詠んだ状況については高木が『遺族』に記している。外出許可が出ると町へ下りてくる隊員たちのなかには高木の宿泊していた旅館をたまり場にする者があったが、三根や鷲尾、上原もその一人であった。この句はその高木の部屋で詠まれたのである。一九四五年五月、三根ら特攻隊員に出撃命令が出るほんの少し前のことだ。
鷲尾少尉は立って、三根少尉のそばに行って、坐った。
「これはどうです」
鷲尾少尉の示した紙片には、鉛筆で歌が書きしるしてあった。
今さらにわが受けてこし数々の
人の情けを思ひ思ふかな
三根少尉は、くりかえし読んでいた。戦闘機乗りらしくない重厚さがある。それが、いかにも、学校の先輩らしい様子に見えた。
「―『思ひ思ふかな』と字あまりにしたのは、未練らしくていかんよ。この期に及んで、とくにそういう感じがするな」
鷲尾少尉はすなおにうなずいて
「そうか。それでは、これは―」
と別な歌を見せた。
さながらに鬼とはなりて逃げまどふ
仇の胆をば追ひに追はなむ
「貴様、字を重ねるのが好きになったな。それにきもを追うというのは変だよ」
と、三根少尉が率直に言った。(略)
「こうやって、川の流れの音を聞いていると、くにに帰ったような気持になるなぁ」
三根少尉は、故郷の佐賀の家をしのんでいた。
「俺も、ひとつ見せようか」
三根少尉は、鷲尾少尉の歌の余白に、句を書きつけた。
みんなみの潮の八重路をつばくらめ
三根少尉の飛行機は『飛燕』であった。
三根は東京帝国大学の学徒出身者で、鷲尾とは一つ年上であるものの、同じ特操(特別操縦見習士官)二期の出身で同期にあたる。ここでの二人のやりとりには彼らのこうした関係が端的に表れていよう。この句は以前詠んだものを三根が再びとりだしたものか、あるいはここで新たに詠んだものかははっきりとしないが、少なくとも沖縄に出撃する際の気持ちを詠った鷲尾に対して提示したものであることがわかる。つまりこの句の「みんなみの潮の八重路」とは沖縄への出撃のことであり、「つばくらめ」とは高木のいうように「飛燕」のことなのである。「飛燕」すなわち三式戦闘機は鷲尾や上原の使用した飛行機でもあった。とすれば、この「つばくらめ」とは三根のみならず鷲尾をはじめとする他の隊員たちを示唆してもいようか。三根が沖縄へ向かう自分たちの姿を「つばくらめ」のそれとして詠んだのはどうしてだったろう。あるいは、次の春に日本に戻ってくる「つばくらめ」の姿に、やがて英霊として日本に戻るであろう自らの姿を重ねたのかもしれない。だが鷲尾は死に、三根は生き残った。その後の数日間の三根の思いは僕にはわからない。数日後、三根が致命傷を負った試験飛行の際に乗っていたのも飛燕であった。「みんなみの潮の八重路」へと消えていった鷲尾たちと同じ機であったことは、三根にとって不幸な偶然と呼ぶべきであろうか、あるいは幸福な偶然と呼ぶべきであろうか。