【74】夕落葉遠出の母の帰る頃  朝長喜美子

 

 

鈴木他郷編『朝長喜美子遺句集』(非売品、一九八四)の一句。巻末の略歴によれば、朝長は一九六〇年に出産に伴い東京海上保険株式会社を退職、一九八一年に鈴木他郷の指導する「さわらび俳句会」に入会し、その三年後、五五歳で亡くなっている。本書は朝長の百ヶ日に上梓された遺句集である。
本書序文で師の鈴木他郷は朝長との出会いを次のように書いている。

永野義一先生の十余年に渉る「花わらび」の余燼から、その再燃をと昭和五十六年春「さわらび」として句会を地域文化センターに持ちましたとき、始めて喜美子様にお会いしたのでしたが、会員中のお若手として早速月報の編集印刷や、会計等の面倒な雑務を担当する幹事のお一人として、今日に到りましたご労苦は並々ならぬことでした。(「朝長喜美子追悼」)

本書の跋文を書いているのは朝長の友人たちであるが、そこからは朝長にとって俳句がどのようなものであったのかがうかがえる。

私が喜美子様とお近づき頂きましたのは、九年前お隣に越して来た時からです。以来喜美子様には本当にお世話になりました。書道、古典、着付教室、生活学校と一緒に勉強し、体操、旅行と遊びも一緒でした。ご主人様がクラスメートとおっしゃる通り私たちは齢も同じ、気を許し合へる友として遅い出逢ひを取戻すかの如く、密度の濃いお付きあいでした。
 俳句は五十六年に先輩からお誘いを受け、二人共全くの初心者でしたので恐々出席致しましたが、他郷先生の誠実なお人柄と会の和やかな雰囲気に感激し入会させて頂きました。喜美子様は真摯、純情な御性格と、豊かな詩心でめきめき上達なされ、私も大いに啓発されました。棚橋様と三人寄れば俳句の話に時の経つのも忘れ「あと十五年したら自分の句集を出したいわね、それまで下手でも続けましょうね」「でも一体何冊皆様に貰って頂けるかしら」等楽しい夢物語をしておりました。(戸塚佳子「祓」)

俳句が主婦へと開かれていった時代にあって、朝長やその周囲の人間が「書道、古典、着付教室、生活学校」といった習い事とひと並びのものとして「俳句」を認識していたらしいことがわかる。とすれば、朝長が俳句をはじめたのは、「俳句しかなかったから」「俳句がやりたかったから」というよりはむしろ「俳句もやりたかったから」と解釈するのが自然であろう。このようにして俳句を始めるという事態は朝長やその周辺に限って起こっていたことではあるまい。総合誌が作句法を説き次第に入門書化していくようになるのはこの少し後のことであるが、「俳句」とのこのような付き合い方がむしろ一般的であればこそ入門書としての総合誌がいまだに広く受容されているのではあるまいか。
僕は書き手としての朝長のこのようなありかたを糾弾したいのではない。僕はむしろ、「俳句もやりたかった」という書き手のありかたが、「俳句しかなかったから」という書き手のそれよりも下等であるかのように扱われることを恐れるのである。着付教室に通うのと同じように俳句に携わり続けることのどこがいけないのだろう。こうした大衆化が総合誌の入門書化を促したとしても、それはあくまで総合誌の編集のありかたの問題であって、「俳句もやりたかった」という動機を貶める理由にすべきではあるまい。だが、俳句を始める動機を追究すること自体そもそもナンセンスであって、本当はそのようなことよりも結果としてどのような俳句が詠まれたかということのほうがよほど大切なのかもしれない。

成人を迎へし姿かがやけり
吾子よりの島の便りや夾竹桃
風の子と言交はしつつ厨事
梅一輪ひそやかに活け姉見舞ふ
水温みこころうきたつ朝厨
ひぐらしのリズムに合せ葱きざむ
朝戸出の夫のうすきそぞろ旅
庭師来て極月の空明るくす
虫の音やピアノ弾きたくなる留守居
住み古りて亡父の植ゑし柿たわわ
暮れてなほ明るさ失せず庭の柿

本書を編集した他郷は収録した九十二句のうち「ご家族へのお心やり三十句、庭や厨ごと四十句を数え」た、と記している。句は『さわらび句会報』からの採録であるというから、この九十二句が朝長の作品のすべてではないにせよ、三年間の作句において家庭生活が一貫して重要なモチーフとしてあったことは間違いないだろう。
家庭生活を重要なモチーフとしていた俳人に中村汀女がいるが、川名大は汀女について次のように述べている。

汀女は、先に挙げた女性俳人たち(杉田久女、竹下しづの女、星野立子―外山注)のように、日常生活において俳句を主にして、そこにのめりこむ必要がなかった。久女のように俳句一すじにすがる必要もなかったし、立子のように俳誌を主宰して俳句即日常生活という必要もなかった。汀女と俳句とのかかわりは、もっとゆるやかで、ゆったりしたものであった。朝、妻としてエリート官吏の夫を官庁へと送り出し、夕刻から夜にかけて自宅に迎える。その間、母として二男一女の三人の子供の育児にかかわり、また、主婦としての家事をこなす。これは平凡ではあるが、つつましく穏やかな家庭の幸福。そして、最も基本的な人生の大事。そういう日々の生活の中から豊かな母性が立ち上がってくる。その母性を基底にして、日常に生じる喜びや哀しみの波立ちを繊細な感性と柔軟な表現で見事に掬い上げたところに、『春雪』や汀女俳句の独自性はある。(『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房、二〇一〇)

朝長の句もまた、川名のいう「つつましく穏やかな家庭の幸福」「最も基本的な人生の大事」のなかから立ち上がっているものだろう。ここで表題句「夕落葉遠出の母の帰る頃」に話を移せば、この句もやはり家庭をまなざしつつ詠んでいるのである。この句はさわらび俳句会の一九八四年の新年句会に出すはずだった三句のうちの一句であるが、朝長はその年の一月一二日にくも膜下出血で亡くなってしまったため、生前発表することはかなわなかったという。

初富士や車窓眞近に一人旅
夕落葉遠出の母の帰る頃
枯芝やゴルフボールの陽に濡れて

「夕落葉」の句における「母」とは朝長自身を指したものであろうか。きままな「一人旅」を詠みつつ、すぐさま「母」不在の家を思いやるあたりに―のみならず、「母」の不在が解消されて家庭が元の通りに調和を取り戻す寸前の情景を、夕日に照り映える「落葉」でもの寂しくも美しく彩ってみせたあたりに―朝長における幸福のありようがうかがえる。ここでは「母」は帰ってくることを期待されているし、「母」もまたそのような自分のありかたに激しい葛藤を覚えているわけでもない(あるいはまた、何がしかの葛藤があるにせよ、帰ってくる「母」としてふるまっているのかもしれない)。こうしてみると、朝長の作品は状況に順応する身体のもたらしたものであったが、一方で、句を詠むことでそのような自らのありようを補強していったところもあったのではないかとも思われる。すなわち「夕落葉遠出の母の帰る頃」の「帰る」とは、帰るべき「母」としての自らのありようを肯定する朝長が無意識のうちに選択された言葉であったとも思われるが、一方でこの「帰る」はまぎれもなく朝長が自らの意志で書きつけた「帰る」でもあったはずなのである。