【76】飼屋より母屋は暗く灯りけり  井上磯吉

 

井上磯吉『井上磯吉遺句集 磯の初波』(町田ジャーナル社、一九九九)の一句。
本書は一九九七年に八二歳で亡くなった井上磯吉の遺句集である。井上は東京都町田市で農業を営みつつ俳句や書道を嗜んでいた。堀江泰紹の跋文によれば、一九七三年に胃癌で入院し、退院後リハビリのため長野県小県郡丸子町の鹿教場温泉療養所に半年近く入所したが、こうした療養生活のなかで俳句と出会ったという。

井上さんは療養生活の退屈のつれづれに俳句を作った。しかしそれには季語がなく、とても俳句と言うしろものではなかったが、自宅の隣りに住む俳句の名人・藤村藤羽翁(高濱虚子の直弟子)の添削指導を受け、まず腕だめしに藤村翁の選んだ俳句を新聞に投句したところ掲載されることになり、藤村翁の推薦で俳句結社・遠山会に入会投句するようになった。遠山会主宰は犬山城主・成瀬正俊氏で、正俊氏もまた高濱虚子の高弟であった関係から、俳句の傾向も伝統俳句の趣向に重点をおき、花鳥諷詠詩の俳句研究が主眼とされた。またその後『遠山』の他に『大櫻』の会員にもなって活発な投句活動が平成九年の亡くなる直前まで二一年間つづけられた。(堀江泰紹「跋・亡き磯吉さんに捧げる」)

井上は一九四五年九月に復員した後に酪農業を営み、町田市の酪農家のなかでも指導的な立場にあったというが、発病をきっかけに一線から退き、もっぱら俳句や書道に勤しんでいたという。堀江は「伝統俳句の趣向に重点をおき、花鳥諷詠詩の俳句研究が主眼とされた」というが、酪農家としての生活に根差した井上の作風はむしろ、ホトトギス的な季題趣味を裏切っていくような部分を含んでいたようにも思う。

飼屋より母屋は暗く灯りけり

この句の下地となったのは篤農家としての井上の生活であったろう。「元朝も常の如くに牛乳しぼる」(一九七七年)と詠んでから二〇年近くを経てなお「元日も常の如くに乳搾る」(一九九六年)と詠む井上である。暗く灯る母屋は重苦しくもあるが、一方でつつましく力強い農家の暮らしを思わせる。だがこのように書いてみて、なんとなく恐ろしい気分にもなる。いったい、僕がたった今この句から引き出したわかりやすい篤農家のイメージは何なのだろう。それは何か、この暗さを農家らしい「受苦」の表現であるとして安直に納得してしまうような傲慢さをはらんではいないだろうか。
だが難しいのは、井上の句がえてして真面目で優しい表情をしていて、僕たちにそういう傲慢さを許してしまうところにある。

野良弁当遣ふや蜻蛉の群れの中
雲行きの険しくなりし麦を踏む
籾摺を終わらば温泉に行くことに
百姓に老いて悔いなし籾を蒔く
節くれの指が物云ふ田植かな
案山子置き換へて雀と知恵競べ
稲架掛けや進むにつれて富士隠れ
明易や朝餉までをと一ト仕事

だから、「飼屋より」の句のもつ暗さを、そのまま生命力の強さというようなポジティブなイメージへと転位させることはたやすいし、実際そのような読みこそ井上の本懐に適うものでもあろうかとさえ思う。けれども、それでもやはり、そのような読みは「飼屋より」の句のもつ暗さに対峙することから僕たちを解放してくれる―いわば都合のよい言い訳になっているようにも思うのだ。

減反と定まり張りなく冬田打つ

この句について、薄井清は本書序文で次のようにいう。

 いまは打つ田さえ消えた。井上さんの〝農〟を見つめた句には、消えゆくものを惜しむ《挽歌》の響きがある。(「井上磯吉遺句集に寄せて」)

この「《挽歌》の響き」は稲作にかかわる句に顕著である。

機械化に老いの出番の無き田植(一九八一年)
ふんふんと機械田植を眺む老(一九八二年)
米どころ工場そのもの籾摺機(一九八三年)

本書には戦後の農業の変容をとらえた句が散見されるが、そのまなざしはまた土地の変容をもとらえている。

薊野の町名残し新開地(一九八九年)
ベランダに懸大根や新開地(一九八九年)
平成景気に驕尽せる庭の滝(一九九〇年)

堀江は先の文章のなかで本書を「多摩の農業が滅びて行く姿を無言のうちに捉えている句集」であると評するともに、多摩丘陵の都市化を「土地が生産手段から資産に変貌していくプロセスでもあった」とも述べている。
江里昭彦は「高度経済成長によってこの国の農業が解体されたのちも、引き続き農業と農村とに親和的なまなざしを注いでいるのは、ひとり俳句のみである」とし、次のようにいう。

高度経済成長期以降、今日に至るまでの間に、この国の農業と農村と農民との上に生じたおびただしい病理現象を撮し取った英伸三写真集『日本の農村に何が起こったか』は、俳句の親しげなまなざしも、他の文学ジャンルの無関心も、ともに誤りであると、具体的に明瞭に告げているように、私には思える。(略)
 本書の圧巻は「出稼ぎ」「過疎の村」「土に還る家」の三章であろう。いずれも、高度経済成長と大衆消費文化の裏側で、農業に携わる人間とそれが展開された土地とが蒙った「受苦」の集約的表現である。(「ひとびとは何処へ」『生きながら俳句に葬られ』深夜叢書社、一九九五)

井上の句に出稼ぎ、過疎、荒廃した田畑といったモチーフが現れるのは偶然ではあるまい。井上もまたこうした「受苦」に近い場所で生きていた一人であった。

種案山子隣りは荒るる休耕田
出稼ぎの土産の一つ胡桃餅
休耕田隣りに見つつ早苗取り
出稼ぎの増えし飯場や冬隣
出稼の旧正月偲び小酒盛
案山子迄人数入る過疎の村