畬野清子『続高野春秋』(高野山出版社、一九五九)の一句。本書は高野山出版社から発行されていた雑誌『聖愛』(一九二八~二〇〇五。当初は聖愛社より刊行。のちに大師教報社、さらにのちに高野山出版社から刊行)に連載されていた畬野の随筆をまとめたものである。『高野春秋』(高野山出版社、一九五一)に続く、二冊目の随筆集である。畬野は本書上梓後も『高野ごよみ』(高野山出版社、一九六五)、『高野つれづれ』(高野山出版社、一九七四)など数冊を著している。学生時代に吉井勇に憧れ『スバル』にも歌を寄せていたらしい。本書にも次の歌がある。
浅草の観音様の引き合せ廿年ぶりの先生に逢ふ(吉井勇先生)
二昔前のまゝにゐませる先生に逢ひし東京は桜のさかり
畬野は戦前の高野山に生まれ育ち、一旦はハワイに渡航するが、その後戦時中から戦後にかけての高野山にあって一寺院の「だいこくさん」として生きた人物である。本書に収められた作品を執筆していた当時の畬野は四〇代。二人の娘を持つ母親でもあった。
高野山の女人禁制が解かれたのは明治初年のことであったが、実質的には禁制が続いていた。本書には次のように記されている。
明治初年千年の禁制が解かれ、女人の登山住居がゆるされたとはいふものゝ、明治廿三年、教議所から出された「山内護衛規則」や「貸長屋制規」などにも、
山内において女肉の制厳禁なるに付て各院は勿論町屋等の俗宅に於て、婦女を潜宿せしめ或は密かに噉肉する等は常に捜索を遂げ厳重取締あるべき事
但し各院に於て参詣の女人を止宿せしむるは別に例規あり
などゝあるから、明治中期、いや明治時代中には高野山に住む女人などゝ云つても、恐らく、参詣人を装つて、稀に山に住む良人を訪ねて登る里妻位で、数少かつたにちがひない。
大正四年の大法会を契機として高野山内に於ける女人の地位は、驚異的に上つた……、そして、大つぴらに、寺にも、町屋にも、女の姿が見受けられ、女が山に根を下したとも云へる。(「石堂丸は今の世にも」)
畬野が子ども時代をすごした大正期の高野山は、まだそこに住まう女性の少ないころであった。
子供の頃、夜更けてしまひ風呂に入つてゐると、参詣の方がひよつと入つて来られる。何か話しあつてゐる中に……寺の近くの者でもらひ風呂に来たのですとうそを云ふのが毎度だつたことを覚へてゐる。(「忘れ雪の記」)
本書はこうした高野山の変化を―とりわけ戦後における高野山の変化を間近で体験した女性による同時代の証言となっているという意味で貴重なものであろう。高野山が次第に外部に開かれた場となっていくことは、しかし、敬虔な信徒であった畬野の目には嘆かわしいものとして映ったようである。だが戦後の生活の困窮と、それに加えて宿坊への課税は、畬野たちのような高野山に住む者に参詣人の懐をあてにしなければならない状況を強いることとなり、結果として高野山の観光地化を促す要因となったことは否めないだろう。
そのようななか、畬野は高野山に伝わる伝説や、かつて高野山に生きていた人々の姿を書きとめていく。両者はときに渾然となり、そうした渾然たる物語の集積はやがて畬野独自の「高野山」をかたちづくっていくのである。
そのひとつが、「小堀さん」なる男性の物語であろう。「家業を忘れ、放蕩の果、妻子を捨てゝ家出。流れ流れて高野山の麓、高野口まで来て、宿屋の番頭にまでなつてゐた」という「小堀さん」は五〇歳にして高野山に上り、その名と生涯を捨て道心となった。やがて大正も半ばを過ぎ、高野山での暮らしも十年余りになったころ、一人の少年が「小堀さん」を訪ねてきた。
「この四月の法会に、僕の隣の家のおぢちやんやおばちやんが高野へ登りました。その時、金堂で、白い着物に黒い法衣を着てゐたけれど、僕のお父さんにちがひ無い人を見たといふのです。おぢちやんはどうもおかしいから、ちがふ法衣の人にその人の名前を聞いたら、小堀さんといふ人や、といはれたさうです。
僕のお父さんはもう十何年前に、僕と妹を残したまゝどこかへ行つてしまひました。(略)
僕が、お母ちやん、僕一人で高野へ行って来る……といつたら、そんな遠い所へ一人で行けるかしら……行つてもきつと、お父ちやんとちがふよ、お父ちやんは、もうお母ちやんや、一郎や、美代子の事など忘れてしまつてるつて、お母ちやん泣いてゐました」
(略)
「さうか、まあ、上りな」
暫く、黙つて見下してゐた小堀さんは、ぽつり、と云つた。
大きい勧学院の庫裡の中を、もう夜の闇がすつかりつゝんでゐる。
小堀さんが、その男の子を、金剛峰寺の給仕に使つてもらふやう、納所さんに頼んで黒い木綿の紋付、小倉の袴の可愛い、給仕長谷さんは、本山の廊下を、案内して廻る様になつた。
しかし、長谷さんは、本山の中で寝起し、小堀さんは相変らず伽藍づとめである。
小堀さんは「長谷よ」と呼んで、「一郎」とは呼ばず、長谷さんは「小堀さん」と呼んで、「お父さん」とも云はぬ。(「石堂丸は今の世にも」)
この「小堀さん」の物語は、題名にもあるように、石堂丸のそれを想起させるものだ。出家して刈萱道心と呼ばれるようになった父を高野山に訪ねる石堂丸の物語は、父子関係を明かさないまま二人で高野山で生きるというところまで実によく似ている。というよりも、細部まで見ていけば違うところもずいぶんあるのだが、畬野が両者を類似した物語として提示しているのだと考えた方がよさそうである。
亡び去つたときのなつかしさよ。
過ぎ去つたものゝうつくしさよ。
高野を愛する私は現在の高野の姿を嘆きます。腹立たしく思ひます。
高野は高野であつて高野で無くなりつゝあります。
私は高野を愛する人々と共に、消えてゆく高野の寂光をもう一度見直したいと念ふのです。(「児ヶ滝聞書」)
さて、表題句に話を移そう。本書ではいくつかの随筆の後に三句から五句程度が添えられている。内容的に随筆と関連する句もあればそうでない句もある。この句を末尾に付す「忘れ雪の記」は女人禁制の解かれた高野山で変化していく「女の生活」や種々の風俗について体験をまじえて綴ったものだ。「忘れ雪の記」に付されたのはこの句を含めた以下の五句である。
句五つ
わがむくろさらして月の蛇腹みち
わがむくろおほふものなき良夜なる
野ぶどうのかもすことなき独居かな
曼珠沙華生命いとしみ生きんと思ふ
秋の水よりもつめたき硯洗ふ
「蛇腹みち」とは金剛峰寺から修行の場である壇上伽藍へと通じる幅三メートル、長さ百メートルほどの道のこと。この「蛇腹みち」について畬野は「夜十一時の大堵(ママ)の鐘が鳴り初(ママ)めると、蛇腹の道を通つてはいけないよ、明神さまが弓のおけいこをなさるのだから」と聞かされていたという。また、「わがむくろさらして」に関しては、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子に次の歌がある。
われ死なば焼くな埋めな野に捨ててやせたる犬の腹を肥せよ
弘法大師に深く帰依した橘嘉智子のこの歌は本書でも引かれているが、橘嘉智子はまた世の無常を示すため自らの死体をさらすことを欲したとも言われる。高野山の僧たちが仏道修行に向かう道に冴え冴えとした月の光を浴びながらさらされる「むくろ」は、しかし、決して恐ろしいものでも悲しいものでもない。「わがむくろおほふものなき」夜を「良夜」と詠う畬野にあってはむしろ清々しい景でさえある。むろん、この「蛇腹みち」のあるのは観光地然とした戦後の高野山ではない。「一つ鐘が鳴ると近い中に火事がある」といわれた大塔の鐘の音が鳴り響き、「明神さま」が弓の稽古をし、八人の神人によって担ぎとられた嵯峨上皇の玉棺が桜の木に掛けられたのを信じることのできた、懐かしくも美しい高野山であろう。それはまた、畬野が生きてきた場でもあった。「私はつらいのです」「寂しいのです」と思いながらも、「誰にもわかつてもらへないのですけれど、お大師さまだけはわかつて下さいますね」とひたすらに信じながら生きてきた場であった。
「蛇腹みち」を照らす月の光を、畬野はこんなふうにも記している。
明神様から御影堂を拝んで、大塔の丹の色が月明かりに匂ふのにさそはれて、私達は冷たい大塔の石段に腰を下す。
不動堂の屋根、御影堂の屋根が月に濡れてゐる。
御影堂の屋根を見てごらん、腹がたたないでせう。何にもほしいと思はなくなつて、何だか心がやさしくなつてくるのよ、みさちやん、どう思ふ、
と話しかけると、若い娘らも、
本当にいゝですね、さういはれるとそんな気がします。
と素直にうなづく。
又明日の朝早いのだから帰りませう、と気づかう私に、
涼しくて、お月様がこんなに美しいし、もう一寸ゐませうよ
とこの娘らはうごかない。(「秋に生きる」)
この高野山に「むくろ」をさらすことの、なんと幸福なことであろうか。