明坂英二『かすてら加寿底良』(講談社、一九九一)の一句。本書はカステラをテーマにしたエッセイ集である。カステラの誕生とその生い立ちについて論じているほか、カステラの登場する文学作品の紹介、松翁軒社長山口貞一郎氏との対談などが収録されている。
カステラと俳句といえば、以前この連載で紹介した中村汀女のエッセイ『ふるさとの菓子』(中央公論社、一九五五。アドスリーより二〇〇六年に復刊)に、福砂屋のカステラに関するこんな記述もあった。
長崎の町の石畳、心に描くオランダ船。そんなものとは別に、私には昔、女学校の修学旅行で、家恋しくて泣いた記憶。誰かに届いたカステラをわけてたべたら、今までの悲しさが消えてしまった。
長崎の町の石畳、心に描くオランダ船、そして自らの旅の記憶―汀女が長崎を思い起すとき、その追憶にははるか遠い時代への想像が入り交じる。カステラは汀女にその追憶と想像とを呼び寄せたが、また同時にそれらを消し去ってくれるものでもあったようだ。いまから約六十年前に書かれたこの小文は、いまなおその輝きを失っていない。それは、本州の果てにある長崎が多くの人にとって追憶とともにある遙かな街であり、同時に、その個人的な追憶がいつのまにか「長崎」という場に刻まれた近代以前の街の記憶と結びつき、奇妙に感傷的な気分を誘うからではあるまいか。
銀座通ればはるかとだれに
歌が聞こえる黒船の
バテレンバテレンパライソパライソ
見れば長崎カステラ娘
甘いえくぼの粉が散る
これは一九五二年に制作された文明堂のコマーシャルソング「カステラ娘」の一節である。ここにもまた戦後の風景のなかに「黒船」「バテレン」「パライソ」といった語彙が挿し込まれ、不思議な時空のなかに「長崎」が措定されている。
ところで、カステラと縁のある作家ということならまず思い浮かぶのは北原白秋ではなかろうか。本書でもとりあげられているが、白秋の第二詩集『思ひ出』にはその名も「カステラ」なる一篇がある。
カステラの縁の渋さよな。
褐色(かばいろ)の渋さよな。
粉のこぼれが手について、手についてね、
ほろほろほろほろと、たよりない眼が泣かるる。
ほんに、何とせう、
赤い夕日に、うしろ向いて
ひとり植ゑた石竹。
白秋には他にも「ゆく春のかりそめのなやみゆゑ/びいどろの薄き罎に/肉桂水を入れて欲し、カステラの欲し。」と詠った詩(「かりそめのなやみ」)や、「カステラの黄なるやはらみ新らしき味ひもよし春の暮れゆく」という歌もあるが、この歌を含む『桐の花』の冒頭には「桐の花とカステラ」と題された小文が配されている。
桐の花とカステラの時季となつた。私は何時も桐の花が咲くと冷めたい吹笛フルートの哀音を思ひ出す。五月がきて東京の西洋料理店レストラントの階上にさはやかな夏帽子の淡青い麦稈のにほひが染みわたるころになると、妙にカステラが粉つぽく見えてくる。さうして若い客人のまへに食卓の上の薄いフラスコの水にちらつく桐の花の淡紫色とその暖味のある新しい黄色さとがよく調和して、晩春と初夏とのやはらかい気息のアレンヂメントをしみじみと感ぜしめる。私にはそのばさばさしてどこか手さはりの渋いカステラがかかる場合何より好ましく味はれるのである。粉つぽい新らしさ、タツチのフレツシユな印象、実際触さはつて見ても懐かしいではないか。同じ黄色な菓子でも飴のやうに滑すべつこいのはぬめぬめした油絵や水で洗ひあげたやうな水彩画と同様に近代人の繊細な感覚に快い反応を起しうる事は到底不可能である。
白秋はこの歌集の末尾に「わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき」とひどく感傷的に記したが、その感傷的な気分はまた白秋に「『桐の花とカステラ』『昼の思』の二評論は時折のわが歌に於ける哀れなる心ばえのほどを述べたれども、そはわが今のつきつめたる心には協はず、ただ詩のみ、余情のみ、うはかはのただひとふれのみ」とも書かしめたのであった。「桐の花とカステラ」にある感懐は『桐の花』上梓時の白秋にとってすでに過去のものであったが、この小文と先の詩や歌とを併せ読むとき、かつての白秋にとってカステラは晩春(あるいは初夏)を思わせる菓子であり、また懐かしさをもって自らに訴えかけてくる菓子としてあったことがうかがえるのである。
さて、そろそろ表題句に話を移そう。この句は池西言水『東日記』に収録されている。『東日記』の編まれたのは一六八一(延宝九)年。種子島にポルトガル人がやってきたのは一六世紀半ばのことだから、それから一世紀あまりが経っている。本書で明坂は『大和田近江重清日記』の一五九三年七月二五日の項に「ハント云南変ノ食事」(=パンという南蛮の食事)という記述がみられること、あるいは一七世紀初め(元和年間)の長崎発のオランダ船やポルトガル船の積み荷に「ひすからと」(ビスケット)や小麦粉が積まれていたという記録があること、また同じ頃、長崎や平戸の葡、蘭、英人たちに雇われた日本人料理人のうちにパンをはじめ「南蛮の食事」の製造技術を身につけていた者が多くいたことを指摘している。そのうえで明坂は、一五九二(文禄元)年に唐津名古屋に対朝鮮の陣を張っていた秀吉を南蛮菓子や南蛮料理でもてなしたという伊藤小七郎(村田等案)をカステラの始祖とする通説を疑問視し、「むしろ、この話から私たちが得ることができるのは、長崎にはこうした南蛮菓子や南蛮料理のプロフェッショナルが続々と誕生していたのだろうという先程からの推測の傍証ではないだろうか」と述べている。ようするに、一七世紀初めには日本人の手によって南蛮菓子や南蛮料理が調えられており、カステラも焼かれていたということらしい。
現在の埼玉県戸田に住んでいた「立沢」なる人物によって表題句が詠まれたのはそれから半世紀以上も後のことである。立沢がいかなる人物であったのか、判然としない部分が多いが、少なくともこの時期には「カステラ」の名とその菓子自体が江戸近辺にまで伝わっていたのである(なお同時期(一六七六(延宝四)年)の句に山口素堂の「伝書(つたへきく)唐のやうかんかすていら」もある)。
表題句の意味については明坂が次のように解説している。
時は秋―若様だかお嬢様だか、それはわからないが、「さあさあ、おあがりなさいませ、おいしいカステラでございますよ」。差し出す乳母の手にはらはらとカステラの粉が散る。まるでそれは黄色いオミナエシの花のよう。
『東日記』編者の池西言水はその序文で「これより先三たび句帖を顕はし、三度風躰をかへて三たび古し」と記しているが、当時新風を模索していた談林派の俳諧師らしい選句ではある。女郎花は万葉集の昔から美女に喩えられる花であって、古今集にも「名にめでて折れるばかりぞ女郎花われおちにきと人にかたるな」(遍昭)と詠われているようにその美しさが愛でられてきた。この句のおもしろさはその鮮烈な黄の印象だけではなく、当時目新しかったカステラを古典的美意識をもって詠ったところにあるだろう。
それにしても、カステラの粉が女郎花の花のように手に散る、というのは少し不自然な気もする。たしかにカステラを食べていて粉が手につくということはあるかもしれない。しかしそれが花のように散っているさまというのはやや想像しにくくはないだろうか。だが考えてみれば、それは今のカステラと江戸時代のカステラとを同一視しているためだろう。本書で明坂は江戸時代のレシピをもとにかつてのカステラの再現を試みているが、明坂によれば江戸時代のカステラはもっと固いものだったようだ。
なんといえばいいか。まず、慣れ親しんだ二十世紀のカステラに比べて、固い。いや、固いでは誤解を招く。現代のカステラのようには、やわらかくないのだ。質量が詰まった感じがする。昔風にいえば味つけパンみたいな歯ざわり、といっても、わかっていただけるか、どうか。
味わってみる。あまり甘くない。もちろん甘いには甘いのだが、そう甘くはない。卵の匂いと味がする。卵の黄身の濃い匂い。(略)
それから、そうだ、そうなのだ。あれも多分、幕末近いころだったろう、京都のお菓子屋がチラシで、当店のカステラを大根おろしで味わうもよし、寒い冬には熱い湯をかけて食べるもよし、などと書いていた。読んだときには奇異な感じがしたものだが、現代のカステラから考えたからヘンだったのだ。これなら、わかる。そんな食べ方に、味も固さも手ごろではないか。
本書ではカステラの転換期は幕末から明治にかけての時代であると推定しているが、江戸時代のカステラがこのようなものだったのならば、たしかに「お乳が手に散女郎花」という表現も納得がいく。
そういえば白秋の「桐の花とカステラ」にも「私にはそのばさばさしてどこか手さはりの渋いカステラがかかる場合何より好ましく味はれるのである」とあった。これはむろん改良後のカステラのことであろうが「ばさばさ」した「手さはり」というのは、白秋独自の表現であることを差し引いてもなお現代のカステラから少しばかり距離を感じさせる。あるいはまた、戦後間もない頃につくられた「カステラ娘」の歌詞にも「甘いえくぼの粉が散る」とあるが、これはどうだろうか。「カステラ娘」と同じ時期に書かれた『ふるさとの菓子』ではカステラの感触について次のように記している。
あの焦げ色は砂糖の加減によるとか。押してもつぶれぬ弾力、しっとりとしてべたつかず、最後にざりっと(原文「ざりっ」に傍点)歯に来るザラメの触感は、これこそ本場にしか求められない。
ここまで来るとまぎれもなく我らがカステラという感じがする。とすれば、「カステラ娘」の「粉」も、かつて立沢が「お乳が手に散」と詠ったそれとは異なるものなのであろう。