【88】塵捨てに出て山吹を手折りたる  野村くに女

野村泊月『雪渓』(輝文館、昭和一九)の一句。野村泊月(別号帰虚)は明治三四年に東京専門学校英文学科に入学、在学中より生涯高浜虚子に師事した。ホトトギスで活躍した者のなかでも古い俳人の一人である。中国杭州で教鞭を執って後北米に渡り、明治末頃から大阪九条で私塾「日英学館」を経営した。渡米中は俳句から離れていたが、『現今俳家人名辞書』(宮地貞頴編、紫芳社、明治四二)には実兄の西山泊雲とともにその名が見られるから、この頃にはすでに俳人として広く認知されていたことがわかる。大正時代に入ってから『ホトトギス』に復帰したが、復帰後まもなくして虚子の「進むべき俳句の道」で泊雲とともに紹介されたのは泊月がホトトギスの代表作家となったことを示すものであろう。大正九年に京都の高倉へ移住、同一一年には田村木国、皆吉爽雨とともに『山茶花』を創刊、雑詠選者を務めたが、やがて昭和一一年に『桐の葉』を創刊、主宰となった。本書序文には虚子が『東京新聞』(昭和一九・二・一三)に寄せた記事が転載されているが、そこには太平洋戦争末期の泊月の状況が次のように記されている。

今迄は西の宮市で「桐の葉」というふ俳句雑誌を出して後進を導いてゐたが、今度県から雑誌統合の指令があつた時、他の雑誌と合同することを潔よしとしないで、国策に順応し、断然廃刊して、自分は丹波に帰農する。今迄自分の養ひ来つた子弟も元来虚子の弟子としてゞあつたのだから、此際虚子に返納する、自分は今後唯俳句を作ることにのみ専念するから宜しく頼む、と言つて来た。(「一陣の清風」)

『雪渓』には「帰農して天下の芋を作らばや」の一句もある。泊月は虚子の記している通り昭和一九年には郷里の丹波に疎開している。白内障を患い、昭和三一年には全盲となるなど決して幸福とばかりはいえない晩年ではあったが、この時期に句集を上梓できた泊月はやはり恵まれた俳人の一人であったろう。

本書は『比叡』(花鳥堂、昭和七)、『旅』(花鳥堂、昭和一二)に続く第三句集である。『旅』以後の昭和一二年から一八年までの約九〇〇句を季題別に収録している。興味深いのは巻末附録として妻くに女の句集も収められている点だ。兵庫県の造り酒屋「西山酒造」に生まれた泊月は東京専門学校卒業後に野村家に婿入りする。くに女と夫婦になったのはこのときのことである。

泊月は「花あられ」と名付けられた妻の句集の冒頭で「大正十三年以来忙しい家事のひまひまに、細々ながら、私に従いて作つて来た句の中から、ホトトギスの雑詠に採られた二百余句を集録す」と記している。「花あられ」には大正一三年から昭和一八年までの句が季題別に配列されているが、厳選で知られた当時のホトトギスの雑詠にあってこれらの句が皆採られたのだとすれば、くに女は無名どころか当時ひとかどの俳人として認知されていたはずである。

くに女については詳らかでない部分が多いが、泊月と結婚した時期などを勘案すればおそらく年齢的にはホトトギスの最初期に登場した長谷川かな女や竹下しづの女、阿部みどり女といった女性俳人たちと同世代か少し上に当たるものと思われる。また「花あられ」の句がつくられた時代はちょうど四Tをはじめ新しい女性俳人の登場と活躍の見られた時期でもあった。くに女はそうした若い女性俳人の華々しい活躍のなかにあって地味ながら着実に句作を続けていたのである。それにしても、このようなくに女の姿が夫である泊月のそれに重なるのは偶然であろうか。

野村泊月君の句に就ては先に「比叡」の時分に言つたことがあるが、この「旅」に就ても亦数言を費やさうとなると大抵は前に言つたことを繰返すに過ぎない。これは泊月君に進歩が無くて旧態依然たるものであるからではなく一生一句風といふ嘗て私の言つた言葉から寧ろこれを、俳句の正しい道を歩んでゐるものとしてそのあとを祝福する意味から言ふことである。(略)
 兎角若い人の仲間にはこの一人一句風といふことに飽き足らないで、短い一生に沢山の仕事が出来るやうに考へて何句風も転変しなければ進歩がないものゝ如く考へてゐるやうであるが、その勇気は買つてやらねばならぬ所であるとして、私はその考は、まだ浅いと思つてゐるのである。(高浜虚子「序」『旅』前掲書)

さて、先にも述べたように「花あられ」に収められた句は大正一三年以降の作品である。大正一三年といえば泊月が京都に移住し『山茶花』『桐の葉』を創刊するなど、最も旺盛に活動していた時期にあたる。くに女の句をいくつか引いてみよう。

春の雪酢茎の村を通りけり
春風や紋付つけし下足番
菖蒲風呂出でし男の子の化粧かな
袋角さはればよけて又従き来
蝙蝠や西も東も知らぬ町
二三日庭の病葉掃きにけり
へなへなとうつれる竿や秋の水
蚊帳つりて老いの火燵や秋の雨

たとえば夫の泊月には「栗やれば栗鼠は可愛や立ちて食う」「蒲団より出て覗きをるばくちかな」「顧みる障子の穴に目がありぬ」といった句があるが、妻のくに女の詠みぶりもまた、平明であることが自在であることへと通じていくようなのびやかさを持っている。とりわけ、「花あられ」のなかに多い家事を詠み込んだ句においてそれは最もよく発揮されているように思う。くに女の句を読んでいると、かつて批判の対象にさえなった「台所俳句」が決して偏狭なものなどではなく、むしろいかに豊かな可能性を持っていたのかがうかがわれる。

虫干や人手なければそこそこに
灰掻けば秋の蚊の出し竈かな
みんなして間引菜そろへ朝の庭
寒鯉を生けて厨の大盥
短日やみとりのひまの小買物

さて、表題句に話を移そう。この句は昭和三年に発表されたものだ。妻の句集を併録する『雪渓』のなかにはおもしろいことに泊月・くに女がまるで呼応しているかのような句も見られる。たとえば泊月に「蕨とる我を迎へに杣が妻」「湖北より又来る雪や芹を摘む」があるとすれば、くに女に「洗ひゐる芹をとられし流かな」「茹わらび水にひたせし蕾かな」あるいは「のびやかにゆで蕨あり桶の水」がある。泊月が「麦秋や厨仕事も笠のまゝ」と詠めばくに女は「花衣そのまゝ下りる厨かな」と詠む。この符合が意図的なものであるとは思えないが、しかし、同じ季題で詠むときに一家庭の夫と妻とでどれほどの違いがあるのかを示していて興味深い。

違いといえば、旅中吟を多く含む句集『旅』を持つ泊月に対し、くに女の句には遠出した折の句というものはあまり見られない。その代り、くに女は近所を出歩いてはそれを句にしている。

裏木戸を出て春水に到りけり
げんげ摘む子を待ちながら立話
春風や先へゆく子を呼び戻し
身細うに軒端づたひや五月雨
病院へ買うて行きたる蝿叩
縫ひかけて綿買ひにゆく夜寒かな
短日やつかまへられて立話

表題句もこのような、いわば「出歩く身体」を詠んだもののひとつである。この句は多くのことを言おうとしない。「出歩く身体」の全量を詠んでいるのみである。だが、この種のささやかな行為をなす身体をやや異なるアングルからとらえた句が泊月にある。

女ゆく梅の小枝をひそと折り

ここにおいて、「出歩く身体」はふいに他者のそれとして立ち現われてくる。換言すれば、「山吹を手折」る身体は、泊月のまなざしの先にある身体でもあったのである。もっとも、自らの身体が見られる身体としてもあったことはくに女も知っていたにちがいない。というのも、「花あられ」には次の句もあるからである。

夫酔うてまぜつかへせし加留多かな