【93】東京へ歩いてゐるやいぬふぐり     岸田稚魚

風間勘助編著『凪』(凪俳句会、昭和一九)の一句。
本書は凪俳句会による合同句集である。奥付にある凪俳句会の住所は「神奈川県茅ケ崎町字南湖一二八九三」となっており、ここから同会が茅ヶ崎のサナトリウム「南湖院」関係者の集団であったことがわかる。また後記には「我等同人、おほむね俳句的経歴若く自分の句集を持つなど夢想もしなかつたところであるが、俳誌『凪』の刊行に苦楽を共にした同人十五名の自己の作句の記録、生活の記録といふ位の気持ちで一先づ句集を編んだ次第である」とあるから、凪俳句会は『凪』という自らの俳誌を持ち、その同人による句集ということであるようだ。
本書は長野の富士見高原療養所にいた富田與士による序句から始まり、小川淳太郎、田崎喜三、風間歩牛、駒崎八尺、岸田稚魚、成田修、後藤彦四郎、勝倉源也、花崎静峰、池田季雄、柴田元男、柿原彌興、土屋蒲葵葉、太田杏葩、山口野風の順に一五名の句が並ぶ。参加者の略歴の記されていない本書には詳らかでない部分が多いが、若き日の岸田稚魚の名があるのは興味深い。昭和一三年に結核を発症した稚魚にはたしかに南湖院に入院していた時期があり、本書にはその時期の作品が収められている。稚魚といえば三三歳で上梓した『雁渡し』(昭和二六年)が最初の句集として知られているが、『雁渡し』の七年前、まだ二十代半ばだった稚魚にこうした合同句集のあったことはどれくらい知られているのだろうか。
岸田稚魚は大正七年生まれ。父は増田龍雨門の俳人で『野梅』(加納野梅主宰)同人、また兄も『馬酔木』に投句するなど俳句は身近な存在であった。稚魚が俳句に携わりはじめるのは一八歳の頃からで、南湖院に入るのはその数年後のことである。南湖院では俳誌『砂』を編んでもいたという。俳人稚魚にとって決定的な契機となった波郷の「風切宣言」との出会いは昭和一八年。南湖院を去ったのもこの年であった。二十代の稚魚はその多くの時間が療養生活に費やされたといってよい。
ところで、『凪』の序句を富田與士が記しているのは、この句集が企画された当時富田が富士見高原療養所の俳句サークル「高原人」の指導的立場にあったことと関係している。「高原人」のメンバーは俳誌『高原人』を窓口として神奈川の療養所にいる稚魚らを知っていたし、凪俳句会の側でも富田を知っていたのである。長野で療養中の富田が序句を寄せた背景にはこうしたネットワークの存在があったのだが、『砂』といい『高原人』といい『凪』といい、療養所内で流通した俳誌やそこに集う俳人たちの繋がりについてはあまり論じられる機会がないように思う。しかし、考えてみれば西東三鬼や波郷の例を挙げるまでもなく、病院や療養所での生活が俳句に繋がったという話は実によくある話なのである。また当然ながら、医療や福祉的事業に携わった俳人のうちには身近にこうした俳句サークルや俳誌が存在していたケースもあったはずである。だがそのようなケースについて思いを馳せるとき、僕たちはつい大野林火と村越化石の関係のような表現史的に際立った例ばかりに注目してしまい、結果として、そのような関係を可能にしている構造的な問題に目を向けるよりもはやく個々の俳人の問題として理解しがちではなかっただろうか。しかしより重要なのは、そのような「場」が潜在的にはいくつも存在しており、しかも個々の「場」は必ずしも「点」として存在したのではなく「線」や「面」としてもあったということ、そして、俳句表現の沃野としてのこうした「場」への想像力を欠かさないことであろう。いうまでもないことだが、化石は自身や林火の力のみで「村越化石」たりえたのではない。波郷や稚魚にしても同様であろう。その意味では、今日『凪』のような句集がほとんど顧みられることがないのは口惜しいことに思われてならない。
もっとも、今日『凪』がまるで忘れ去られた句集となっているのには、収録作家のうち最も著名な稚魚自身でさえ『凪』について語ることをあまりしなかったというような、個別的な事情もある。実際、『現代俳句全集』(第二巻、立風書房、一九七七)の稚魚の略歴や「自作ノート」にも『凪』の名はなく、『現代俳句大事典』(三省堂、二〇〇五)などの事典類における稚魚の記述のなかにも見当たらないのである。本書に収められた昭和一六年から一八年にかけての稚魚の句は二十代前半の若書きというべきであり、ガリ版刷りの私家版句集といういかにも初々しい体裁の『雁渡し』は経歴として認められても、『雁渡し』に七年も先立つ『凪』の存在を明示するのはさすがに躊躇われたのかもしれない。だが、おそらくそれよりも大きな理由は、本書が刊行された昭和一九年という時期にあるように思われる。著者代表の風間歩牛(勘助)は後記で次のようにいう。

 昭和拾六年十二月八日 戦線の大詔を拝してより国家未曾有の大飛躍のときに際会し光栄ある国民として又俳句作家としての使命を自覚し胸に沸り立つものを今こそ勁く高ら(ママ)に詠はなければならない。
 我等未熟にしてこの光栄ある聖代の作品として見るべきもの無きを愧づる次第である。

本書に参加した一五名は自らの療養生活を詠んでいるということはもちろんだが、そのなかには戦時下をうかがわせる句が少なくない。

南海に散華せる弟の論功行賞
冬晴れや天恩賤が家に及ぶ     駒崎八尺
初句会の親しみありぬ燈管下    成田修
  ラヂオ回線劈頭の大戦果を報ず
冬凪に軍艦マーチしみ行きぬ    池田季雄
  徴兵検査場一句
黙し喰ふ昼餉の跣足組みゐたり   柴田元男
高射砲実弾射撃演習
砲の音海へはゆかず山に凍つ    柿原彌興
新日本第二の歳の夜明けかな    土屋蒲葵葉
迫り来る戦車が響く木の芽風    同

「冬晴れや」のように銃後の生活を思わせるものから「迫り来る」のように戦火想望俳句的な表現まで、意外なほどバリエーションが豊かであることに驚かされる。そのようななか、稚魚には次の句がある。

十二月八日
降る雪や病みてぞ生くる戦の世
十二月八日(一周年)
笹鳴やかしこみ臥しつこのひと年
十二月八日(二周年)
おほみこと寒日ゆるぶこともなし

稚魚が昭和一六年の日米開戦から毎年こうした句を詠んでいたという事実は、ことによると都合の悪いことであったかもしれない。僕はこうした句を詠んだことの良し悪しについて何か言おうとは思わない。ただ、「降る雪や病みてぞ生くる戦の世」と詠んだとき、それは稚魚においてどこまでも切実な言葉であったろう。それは、この句から漂ういかにも甘やかで自己陶酔的な趣を思うとき、いっそう真実らしく感じられる。こうした句は戦時下という状況をふまえて読むだけでなく、稚魚の他の句と地続きのものとして読むべきであろう。

白木蓮に風あれば星またたける
  南湖院を去る
惜春の砂丘にひくきいかのぼり
  上京
東京へ歩いてゐるやいぬふぐり
初嵐胸の団扇をとばしけり

稚魚が南湖院を退所したのは昭和一八年。「東京へ」の句は『雁渡し』の巻頭句であり(ただし前書は「南湖院退院」)、後に自ら「三年余の南湖院での療養生活に見切をつけて帰宅することにした。家郷に帰れるという心の弾みと、戦時下のこれからの生活の不安が交錯した」(『自註現代俳句シリーズ Ⅰ期23 岸田稚魚集』俳人協会、一九七七)とも記している。そして先の「病みてぞ生くる」からこの「歩いてゐるや」までを一続きのものとして捉えるとき、稚魚が『雁渡し』を第一句集とした別の理由が見えてくるようだ。すなわち、死と隣り合わせの生のなかにありながら、稚魚はここで臥せる身体から歩む身体へと転じていったのであり、それを自他に対して明確に宣言したのが『雁渡し』だったのではないか。むろん、その歩みの先にある「東京」とは波郷のいる「東京」である。昭和一八年、波郷の「風切宣言」に感銘を受けた稚魚は波郷を師事するようになった。俳人「岸田稚魚」はここにおいて新たな局面を迎えることになったのだ。いわば、『雁渡し』とは転生のための一書であった―そう考えるなら、稚魚にとって『凪』はたしかに不要な句集であったとも思われるのである。