【94】三十路われ虹中天へ途ぎれがち     土方一尾

『黒土』(麦発行所、昭和二七)の一句。
本書は中島斌雄の創刊した俳誌『麦』の五〇号を記念して刊行された合同句集である。『麦』昭和二六年八月号には「『麦』五〇号記念計画」として本書の広告が掲載されており、そこには「初期同人十五氏の代表作品網羅」と銘打たれているが、最終的にはさらに三名が加わり一八名による合同句集となった。序文で中島が「これらの人々は、その俳歴によつても窺われるように、多く『麦』創刊以前にその俳句的出発を持ち、当時すでに一応の自己形成をなしとげていた」と述べているように、本書に収録されているのは戦前・戦時中から俳句に携わってきた人々がほとんどである。そのなかでも目立つのが小野蕪子の主宰した『鶏頭陣』の投句者である。小野蕪子といえば新興俳句弾圧に暗躍した人物として知られている。中島斌雄は中学生のころ蕪子に初めて俳句を学び『鶏頭陣』を自身の出発点としていた作家であるから、かつての『鶏頭陣』の作家たちが戦後『麦』が創刊されるやそこに参加したのは当然といえば当然のことでもあった。
なお『黒土』収録作家のうちその略歴に『鶏頭陣』の名の見られる者を挙げると、池禎章、池島晃、井澤子光、今井凄雨、加藤青圃、川口さゞれ、後藤知治、小西歸山、鈴木珠鱗子、野澤陶火、濱田白舟、土方一尾、松野弘靖、松本光司と、そのほとんどの者が該当することになる。濱田白舟は「『鶏頭陣』から『麦』に続いた道―蕪子・斌雄直結の線―が俳句の本道であると信じていることは良き師系を持ち得た感謝と共に、明日への道を踏み進む勇気を与えてくれる」と記しているが、昭和一八年の蕪子死去と『鶏頭陣』の終刊後、昭和二一年に創刊された『麦』は『鶏頭陣』の作家たちの受け皿のひとつとなったのである。今回はそうした参加者の中でもとりわけ興味深い経歴をもつ土方一尾をとりあげてみたい。
土方一尾(一男)は大正四年生まれ。昭和一六年七月、応召地満洲において俳誌『野地坊主』を創刊したが、この『野地坊主』は翌年九月『鶏頭陣』に合流している。戦後は昭和二一年七月に新井紅石と『新土』を創刊。『麦』に加わったのはその翌年のことである。

一尾氏は長い俳句生活者らしい。軍用係で満洲にいた頃は俳誌『野地坊主』を出し、戦線俳句の指導等として張切り、「鶏頭陣」あたりに句を送つていたらしい。(中島央志「麦・同人の素顔 土方一尾」『麦』昭和二六・七)

中島央志はこのように記しているが、実際は「送つていたらしい」どころではない。『野地坊主』が合流した昭和一七年九月号の『鶏頭陣』の表紙には大きく「戦陣誌『野地坊主』合流」と記されているほか、同号巻頭には蕪子による「朋、遠方より来る」なる一文が掲載されるほどの歓迎ぶりであった。

 在満洲の軍隊中の俳人、一団となつて本陣営に合流し来る。豈楽しからずや。相会はずと雖も百年の知己を見し感あり同信定めし拍手し喝采して迎ふるならん。(略)
 朋、遥かに北満の野より来る。亦楽しからずや。
    迎春花日本にとゞき色しるき
 われらは十七文字の上に血のつながりを想ふ。誰も彼もお互に日本人の血の赤さを誇らざらめや。
われらは日本国民の誇を持して、東亜皇化圏の確立に尽瘁すべし。日本文学報国会の報国は何の為めに冠せるの名なりや。報国、報国、われらの鉄の意志と炬の熱と、大日輪の栄光とを誰しも身につけざらめや。
南方の友よ、北方の友よ、大陸の友よ。すべては四季の変化美事なる日本の風土を基地とし、夫々しこの御盾となりて君のため国のため、われらの子孫の為め、征塵を苦とせず、寧ろ楽しみゐるにあらずや。朋、遠方より来る。以て歓迎の辞となす。

しかしながら、こうした時局への順応ぶりのみをもって『鶏頭陣』や蕪子の営為を非とするのは違うだろう。たとえば、本連載でも紹介した松本青志もまた『鶏頭陣』に投句していた青年の一人であったが、応召後も投句を続けていた松本が復員した直後の状況を、松本の友人でやはり『鶏頭陣』の投句者であった川口さゞれは次のように記している。

 昭和二一年彼も内地に帰って来た。彼の前には最早素逝もなく凄雨もなく、俳句も何もなく、あるのはただ激しい闘いのみであつた。(安土利一・松本青志『青土』麦関西支部、昭和三二)

ここでいう「凄雨」とは『黒土』にも収録されている今井凄雨のことだろう。凄雨もまた『鶏頭陣』以来の作家であったが、戦地から投句していた凄雨の動向は蕪子をはじめ『鶏頭陣』の作家たちの注目するところだったのであろう、同誌を繙くと凄雨が自らの帰還を報告する蕪子宛の書簡が掲載されている。

 蕪子先生、凄雨は無事内地に帰還し五日の昼留守宅に帰り、只々胸一ぱいです。喜雨兄、北詩城兄、北一路兄、皆なつかしい俳友に会ひなが(ママ)蝉の音をきゝ撫子、夏菊の美しさに驚きました。(略)今改めて言ふに言ひ切れぬ程の蕪子先生初め誌友諸兄の御親切身にしみて忘れられません。何だか手紙も意あまつて筆動かず、変なぐあひです。只たゞ働きます。俳句に生活に、只たゞ前進です。(『鶏頭陣』昭和一七・九)

凄雨はここで師たる蕪子のみならず『鶏頭陣』の句友へと思いを馳せている。このような凄雨のありようを、松本もまた眺めていたことであろう。いつ死ぬともしれぬ状況のなかで俳句を書き続けるということは、ひとつにはこういうことではなかったか。ここにはたんなる蕪子の俳句観や思想・信条の表象としての『鶏頭陣』とは違う、青年たちの切実な表現行為のプラットフォームとしての『鶏頭陣』の姿が垣間見える。
さて、あらためて土方の句について考えてみたい。
本書に収録されている土方の句は昭和一八年から二六年まで年ごとに分類されている。約二割は『麦』参加以前に書かれたもの、戦時中に書かれたものはさらにその半分ほどである。「吾子」はその戦時中に書かれた四句から始まる。

昭和十八年―二十一年 ニユーギニヤにて
椰子の木の崖なす暑き港かな
椰子の水喉を溢れて灼け土に
野草喰み青き木の葉を喰みて生く
仲秋の月下に照らふ椰子の島

不思議なことに、満洲時代の句はひとつも収録されていない。本書収録の略歴では、戦前については満洲において蕪子らの支援を受けつつ『野地坊主』を発行していたこと、そして『鶏頭陣』へと合流した旨の記述があるのみであるから、どこか肩透かしを食ったような印象の選句である。ちなみに、ほぼ同時代の『鶏頭陣』に見られる土方の句は次のようなものだ。

夏の雲あまたの星を覆ひけり
車装終え甲きらきらと露置きぬ
熱河なる木札と夏雲蓮に映ゆ
兵運ぶ貨車に涼しき河の風
逃ぐる鴨すでに一羽は葦の上
戦友逝きて(二句)
新しき戦友の墓標に牡丹雪
さびにける戦友の墓標に花明り

それにしても、どうして土方は満洲時代の句を選ばなかったのだろう。その事情はわからないが、ただ、「吾子」という題名とともに『黒土』に収録された土方の句全体を見ていくと、なぜほかの句を捨てたのかということはともかく、この四句で良かったのだという気がしてくる。

頭よ腕よ汗は出るもの生くるには

たとえばこの句は一見するといかにも生命力に満ちている。「吾子」にはこのように生への肯定や生きることへの欲求を躊躇わずに表出したような散見される。

吾子の掌を白しと思ふ万緑に
向日葵や吾子もろともに妻を抱く
児の智恵が吾が腕の中麦の道
灼くる壁身を以て這ふ蔦青き
児の足型残し雪より児をだきあぐ
汗にじむ逞ましき背に児を託す
波に逆ふ若さつめたき水を潜る

しかしながら注意すべきは、「吾子」には一方で死や生の痛みの記憶を刻み込んだ句も少なからず見られるということだ。

三十路われ虹中天へ途ぎれがち
踏みつゞく踏まれて起きる麦を背に
いつも在りし画像の跡に春没日
葉桜のざはめき昏るゝ義弟の死
生還ときざみし夏木三とせ経ぬ
錆鉄を篩ふ母子や河残暑

だから、そうした記憶を背景にしながら土方が生を肯定的に詠うとき、それは生への欲求というよりもむしろ生への執着の表出であったように思われてならない。その典型は「帰還報告」という副題の付いた五句であろう。

奥津城と共に濡るゝや五月雨て
夏帽の影濃き顔の近づきぬ
栗青しわづかの庭の空おほふ
滲み出て秋刀魚の脂燃え落つる
蔦紅葉眼に痛し師の扉を叩く

復員後に詠まれたこれらの句を踏まえると、「ニユーギニヤにて」と題された四句がこれらの句の前に据えられている意味も見えてくる。思えば、ニューギニアは東部だけでも十二万以上(西部を含めるとさらに数万人)の日本兵の亡くなった過酷な戦場であった。むろん戦闘による生命の危険もあったが、「椰子の水喉を溢れて灼け土に」「野草喰み青き木の葉を喰みて生く」と土方も詠んでいるように、食料の調達や病に苦しめられたことはよく知られている。とすれば、土方が「頭よ腕よ汗は出るもの生くるには」と詠ったとき、かつてのニューギニアの記憶がよぎりはしなかったろうか。あるいは「灼くる壁身を以て這ふ蔦青き」と詠ったときは―。
「吾子」には家族を詠んだ句が多いが、復員後の時間は土方にとって妻や子と過ごす時間の謂であったのだろう。だが同時に、土方はそうした時間の経過のなかで「生還ときざみし夏木三とせ経ぬ」と詠わずにはいられなかった。土方は、いわば復員後の時間を生きながら、一方ではその胸のうちに復員前の時間を抱え込んでいたのではなかったか。
また土方は「三十路われ虹中天へ途ぎれがち」と詠う。略歴によれば昭和一六年には徴兵され満洲にいるから、大正四年生まれの土方は少なくとも二十代の後半を満洲やニューギニアで過ごしていたことになる。その満洲時代、俳句に対する情熱を次のように語っていた土方の姿と比べると、この句はひどく悲観的だ。

私は見知らぬ人と会ってもすぐ心易く話をする。
永い戦線生活が私をそうさせたのであらう
 一身を国に捧げた私である。「何時死ぬかわからない」と云う心が戦線にゐると絶えず働いてゐるので、一面識もない兵隊に会つても、すぐ心易くなつてしまふのである。これが習性となり、私の性質となつてしまつたらしい。
 人と親しくなると、私は俳句の道を進(ママ)める。
 これも習性になつてしまつたらしい。
 俳句を作る心は私達の生活に非常に良い好果を齎してくれるのである。戦線にある私達には尚更の事である。(略)
世の中には、私の勧めを「俳句は上手に作れぬ」との理由にて拒む人がある。この人は俳句を曲解してゐるのである。俳句は上手になる為に、俳句を作るべきものでは絶対ない。(「俳句を作る心」『鶏頭陣』昭和一七・一二)

しかし、たとえ「途ぎれがち」であるにせよ「虹」は見えているのだ。この振り仰ぐ姿勢にこそ二十代の頃と変わらぬ土方らしさがある。それにしても、この句を詠うまでに土方はどれだけのものを見できたのだろうか。