【94】  不真面目の祖(おや)なつかしき秋の暮   和田魚里

「不真面目の祖(おや)」とは、一体どのような人物だったのであろうか。順当に考えるならば、まず「祖(おや)」は、わざわざ「親」ではなく「祖」の表記を用いているゆえ、おそらく祖父と見ていいであろう。そして、「不真面目」とは、はたしてどのような側面を指しての言葉なのであろうか。ここも順当に考えるのならば、博打や酒の類、もしくは何かの趣味や道楽と見ることもできそうである。

その祖父の存在は、周囲から単にうとまれていたのか、それとも、呆れられつつも「あの人は、ああいう人だから」といった感じで半ば諦め顔で静観されていたのであろうか。具体的な部分までは不明であるが、孫ができる年齢となっても、なお「不真面目」であるのなら、それはある意味感嘆すべきことであるのかもしれない。誰しもがそうそう「不真面目」の状態を長く続けられるわけではないであろう。例えば、自分の子供ができるなどすれば、そのような状態のままでいられるはずがないことは容易に想像がつくはずである。そう考えると「不真面目」に徹し続けるのもなかなか困難を伴う性質のものといえそうである。それこそここからは、石川啄木の〈この世よりのがれむと思ふ企てに遊蕩の名を与へられしかな〉の短歌が髣髴としてくるところがある、といえば少し言い過ぎであろうか。

そして、その祖父の孫である「私」の存在。「不真面目の祖(おや)」の子が必ずしもそのまま「不真面目」に育つとは限らないであろう。反面教師という言葉もあり、家族という組織内において均衡を保とうとする力学が働くということも充分に考えられる。詳しい部分までは判然としないが、ただ、この「私」は、自らの親よりも「不真面目の祖(おや)」の方にシンパシーを感じていたようである。「秋の暮」に浮かび上がる祖父の面影。その飄々たる風姿の内に秘められた哀しみのようなものまでもが、ここからは読み取れる感じがする。

まるで一篇の小説を思わせるような一句であるが、和田魚里の作品を眺めると、作者は、この祖父の資質を少なからず受け継いでいるようである。〈金魚等に嬌声のあり水温む〉〈泥亀の愚痴の哲学聴きに行こう〉〈大鯰布袋腹にて翻える〉〈河童龍之介きどり龍之介河童きどりの忌〉〈或る僧に柚子の品格ありにけり〉など、やや戯画的な作品がいくつも確認できる。

ただ、その一方で〈囀りや明恵上人石を恋い〉〈鶯や夢窓国師は機と書せり〉〈氷心の夢を結べり石一つ〉など、若干インテリ的な側面が垣間見えるところもある。掲句にしても下五「秋の暮」は、「三夕の和歌」を踏まえてのものと見ていいであろう。こう見ると、ある種の自己韜晦のようなものがこの作者の内には存していたといえそうである。

ともあれ、和田魚里は、漫画の世界を髣髴とさせるような独自の俳の世界を描き出した少々風変わりな作者ということができるであろう。

和田魚里(わだ ぎょり)は、明治39年(1906)、東京生まれ。昭和22年(1947)、佐々木有風を識り「雲」に参加。昭和35年(1960)、板橋俳句連盟会長。昭和45年(1970)、句集『機』(中央公論事業出版)。昭和46年(1971)、板橋句会を主宰。昭和53年(1978)、同人句誌「半狂」発刊、主宰。昭和61年(1986)、逝去(80歳)。昭和62年(1987)、句集『再機』。