【12】  人ごみに誰れか笑へる秋の風    飛鳥田孋無公

当然ながら「人ごみ」は主に都市空間におけるビル街や駅周辺など多くの人の行き交う場所において発生する。本来的には「人込み」と表記するのであるが、掲句における「人ごみ」という表記の方がそれこそ雑踏の「ごみごみ」とした無秩序な感じをそのまま髣髴とさせるところがある。

思えば「人ごみ」というものは、なかなか不思議な現象といえよう。老若男女様々な人達が入り混じって形成されているわけであるが、その殆どが見ず知らずの他人であり、各人が互いに擦れ違いながらそれぞれの目的地へ向けて一心に歩を進めている。そして、その中にいる「私」の存在もまたその「人ごみ」を形作る内の一人ということになろう。

黙々と様々な人々が絶え間なく行き交う中、遠くから誰かの笑い声が不意に耳へと入ってきた。ふと歩くことに向けられていた意識が一時的に軽く呼び覚まされた感じとなったが、またすぐに元へと復ってゆく。ほんの些細なことであり、そもそも誰もが他人のことにさほど関心や注意など払ってはいないのである。秋風が、まるでその微かな笑い声を攫うかのように吹き渡っていった。

「群衆の中のロビンソン・クルーソー」と書いたのは一体誰であったか。ともあれ、掲句における誰かの笑い声といったような、それこそ些細ですぐに見過ごしてしまうような「かすかなもの」の気息を捉える鋭敏な感覚というものが、この作者における特徴であるのかもしれない。例えば、他に〈炎天や人がちいさくなつてゆく〉〈そくそくと銀河に生るる風ききぬ〉〈雪だるま月の細きは届かずて〉〈さびしさは星をのこせるしぐれかな〉〈きのふけふうすくながるるかすみかな〉〈ゆふがたやなほひかりをる麦の茎〉といった句があるが、やはりいずれもいまにも消え入ってしまいそうな微かな実在を捉えた作品といえよう。

また、掲句と同じく〈秋風きよしわが魂を眼にうかべ〉という「色なき風」である秋風の清新さを描出した句があるが、このような純度の高い清澄な詩心というものもまたこの作者における特徴を示している。〈霧はれて湖(うみ)におどろく寒さかな〉〈瞑りつつまぶたにうくる春日かな〉〈返り花薄氷のいろになりきりぬ〉〈残雪の底ゆく水を汲みにけり〉〈谷若葉森々と眼(まみ)澄んで来し〉〈電線をはしる雨玉夏ゆく日〉

飛鳥田孋無公(あすかだ れいむこう)は、明治29年(1896)神奈川県生まれ。明治43年(1911)俳句に親しむ。明治44年(1912)詩人山村暮鳥、三木露風に私淑。大正6年(1917)臼田亜浪の「石楠」に入会。昭和8年(1933)9月逝去(38歳)。同年10月句集『湖におどろく』。