【15】  山は即ち水と思へば蟬時雨   山川蟬夫(高柳重信)

「万物流転」とは古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉であるが、当然のことながら、この世界において、ありとあらゆる物質は、恒常的にそれぞれ相互に入れ替わり延々と変容を繰り返し続けている。また、そもそも物質というものは、元素レベルまで遡れば、概ね同じ要素から構成されており、この観点からみた場合、全ての事物はそれこそ実質的に均等といってよく、つまるところ我々の世界というものは数多の組成のヴァリエイションによって成り立っている、ということに一応はなる。

掲句は、「山」を「水」と見做すという極めて主観的な表現がなされているわけであるが、前述の観点から眺めた場合、このような「山」を覆う木々の緑を「水」として認識することも決して一概に誤謬であると斥けてしまうことはできないであろう。

また、掲句は芭蕉の〈閑さや岩にしみ入蟬の声〉の世界観にも通底するものがあるといえようか。この芭蕉の句においては、蟬の喧騒と静寂感といった相反する事象がそのまま等質のものとして捉えられているわけであるが、掲句についてもおよそ同じことがいえるであろう。即ち「山」と「水」の関係がそれにあたるわけであるが、掲句にはそれこそ「山」、「水」、「蟬」、「蟬時雨」、「雨」といったそれぞれ異なる要素がまるで融和するかのように渾然一体となって一句の内に抱懐されている。

芭蕉は、深川時代から佛頂和尚と交際し、禅を勉強したらしい。(…)禅の坊さんたちは、景色だけを簡潔な詩句にまとめ、それを通じて宇宙の大真理と感合することが得意であった。(…)芭蕉は、背後に宇宙の大真理を潜(ひそ)ませる自然を詠じたのであり、それを禅から学び取ったのである。(…)声を把握するのは聴覚である。ところが「白し」は視覚の領域に属する。聴覚に属する現象を視覚で把握するなど、異種の感覚による把握を、心理学では共感覚(synaesthesia)とよぶ。(…)この共感覚は、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚および意識(判断作用)による観念形式の区別を打破しようとする禅の表現に、しばしば出てくる。(小西甚一『俳句の世界』「第四章 芭蕉」より)

芭蕉の〈海くれて鴨のこゑほのかに白し〉についての解説であるが、これは前出の「蟬の声」の句とも通底するものがあるといえよう。また、もし掲句を禅の存在を念頭に置いて読んだ場合、道元の『正法眼蔵』などにおける「山是山水是水」の語句が思い出されるところもあろうか。他に山川蟬夫には〈この夢如何に青き啞蟬と日本海〉〈天津秋彦澄みつつ生命ほそりけり〉〈月明の山のかたちの秋の声〉〈乱世にして晴れわたる人の木よ〉〈さびしさよ馬を見に来て馬を見る〉〈走るなりさうしなければ皆すすき〉〈まぼろしの白き船ゆく牡丹雪〉〈夕風と名乗り夕顔の辺を過ぎる〉〈我はいづこ凩の空凧の空〉などといった、掲句と同じく割合禅的といっていいような風趣の作品が幾つかみられる。

思えば、「山川蟬夫」という高柳重信の晩年の俳号は、「山」、「川」、「蟬」、「夫」という語から成り立っており、このように見るとまさしく掲句の作品内容と直に照応するものであり、またそれのみならず、それこそ「山川草木」といった言葉をもそのまま髣髴とさせるところがある。結局、高柳重信が最終的に辿り着いた場所というのは、意外にも芭蕉の「乾坤の変」を共感覚によって捉える境地と近接する地点であったといえるのかもしれない。

高柳重信は、大正12年(1923)東京生れ。昭和22年(1947)、富澤赤黄男に師事。昭和25年(1948)、『蕗子』。昭和27年(1952)、『伯爵領』。昭和31年(1956)、『黒彌撒』。昭和33年(1985)、「俳句評論」創刊。昭和43年(1968)、「俳句研究」編集長。昭和45年(1970)、『高柳重信句集』。昭和46年(1971)、『遠耳父母』。昭和47年(1972)、『高柳重信全句集』。昭和49年(1974)、『青彌撒』。昭和51年(1976)、『山海集』。昭和52年(1977)、『山川蟬夫句抄』。昭和54年(1979)、『日本海軍』。昭和55年(1980)、『山川蟬夫句集』。昭和58年(1983)、逝去(60歳)。平成14年(2002)、『高柳重信全句集』。