【16】  飛行機が扉をとざし飛行せり   火渡周平

1903年、ライト兄弟によって初めて飛行機による有人動力飛行が成し遂げられた。その後、ひたすら改良が重ねられ、第一次世界大戦の頃、一部の機体にはこれまでとは異なり骨組みや外板に金属が使用されるようになった。そして、この第一次世界大戦を経て飛行機はさらに発展し、大型化が進められ、骨組みや外板の全てをジュラルミンなどのアルミニウム合金によって製作した全金属製の機体が開発されるに至ったとのことである。

掲句は、ライト兄弟の飛行実験の成功からおよそ45年後である昭和23年(1948)の『現代俳句』9月号に発表された作品ということになる。人々が機体に乗り終えた後、搭乗口の扉が鎖され、機体が完全な金属のフォルムを呈し、ゆっくりと滑走路を走り出す。徐々に速度が増すにつれ両翼が風圧を受け浮揚し、やがてそれに伴い車輪が地を離れ、機体がそのまま空の高みへと飛翔してゆく。

掲句からは、まさに翼を拡げた巨大ながらんどうの金属の形象が大空を滑空する疾走感と、雲や大気を掠める無機物のひややかな質感による即物性がそのまま感取されるところがあるといえよう。そして、「飛行機」と「飛行」のリフレイン、ヒ音とト音の重なり、子音のイ音の配列などの勢いを伴う韻律の作用もそれらの感覚を喚起させる役割を果たしている。

また、掲句は無季であり、ただ「金属製の大型飛行機」が飛行する様子をそのまま捉えただけの、それこそ「無内容」の最たる地点に位置するような、随分と人を食ったところのある作品といえよう。一切の虚飾が取り払われ、殆ど五七五の形式性のみでどうにか一句がかろうじて支えられているとでもいった、まさに「骨組みのみの俳句」の趣きを呈している。

この作者には掲句と同じく形式の内部をほぼ「無内容」で充填させたような作品が他に〈石の上又石の上歩きをり〉〈東西に南北に人歩きをり〉〈翡翠の彼方此方もなかりけり〉〈女子誕生鳥居彼方にも此方にも〉〈遠く又近く雨降る恋の極(ミ)〉〈ものの種子吐くや家並と夜空のみ〉など、いくつか存在する。おそらくこれは、石田波郷の昭和20年(1945)から22年(1947)の作を収めた句集『雨覆』における〈風の日や風吹きすさぶ秋刀魚の値〉〈葛の花母見ぬ幾年また幾年〉〈人を恋ふ野分の彼方此方かな〉〈穂草波橋は坂なし又坂なす〉を範に取り、それを自ら推し進めたものということになるのであろう。

ともあれ、掲句や前出の句などに見られる徹底した無内容性からは、まさに詩人アルチュール・ランボーの『地獄の季節』以後の砂漠のからの手紙を髣髴とさせるものがあり、また、そのストイックともいうべき「ニヒル」への飽くなき志向ゆえに、そこからはある種の「俳諧性」といったものが割合強く感取されるところがある。

火渡周平(ひわたり しゅうへい)は、明治45年(1912)大阪府生まれ。昭和6年(1931)頃より句作を始め、「早春」「旗艦」「火星」「寒雷」「万緑」「雲母」「金剛」「太陽系」等、俳誌遍歴を重ねる。昭和22年(1947)「花鳥昇天」を「現代俳句」「俳句研究」「俳句界」「金剛」等に発表。昭和51年(1976)「広軌」参加。昭和53年(1978)句集『匠魂歌』(深夜叢書社)。平成6年(1994)逝去?