【18】  雛の間に何くはぬ顔してをりぬ   金田咲子

「雛の間」は、当然雛人形を飾っている部屋ということになる。掲句は一見平明な内容の作に見えるが、単純にそうではないことは一句の主体の有無により明らかであろう。主語が省かれているため、この「雛の間」で「何くはぬ顔」をしている存在というものが一体何であるのか、句を読み終えた後になっても明確にはならないのである。手元にはただ奇妙な実在感だけが残されている。

そもそもこの「何くはぬ顔」という言葉の意味は「何も知らないといった顔。そしらぬ顔」となる。一体、この「何くはぬ顔」をしているのは、「自分」であるのか。それとも兄弟などの家族や友人。または、全く見ず知らずの子供と考えてみることも可能であろう。あるいは、「何くはぬ顔」であるから、「雛人形」そのものを詠んだ句とも解釈できそうである。さらに想像を広げるならば、なにかしらの「もののけ」の類を想像してみてもいいのかもしれない。掲句はこのように、多くの読みが可能な多義性を有している。

なんとも妙な句という以外にないが、その要因を他に考えてみると、やはりまず上五の「雛の間」というやや非日常的なイメージを持つ言葉の存在が挙げられよう。この言葉との関連性によって「何くはぬ顔してをりぬ」という表現が、ややただならぬ雰囲気を湛える結果となっている。また、「何くはぬ」や「をりぬ」の部分における歴史的仮名遣いの古めかしさもまた日常性から若干遊離した印象を与えるものとなっていよう。

あと、もしこの「何くはぬ顔」の部分が、「何食わぬ顔」という漢字と現代仮名遣いによる表記であったならば、掲句はもう少し冷やかな印象のものとなっていたはずである。ここではそれとは異なり「何くはぬ顔」という平仮名を交えたソフトな表記を採っているため、若干ユーモラスな雰囲気さえ漂う「空っとぼけた印象」の作品となっている。

この作者には、掲句の世界にも通底する、なにかしらもう一つの世界と一連なりになっているかのような印象の多義性を伴った作品が、他に〈極月の空青々と追ふものなし〉〈つり橋がゆれすみれゆれだれか来る〉〈樹々の間にむかうの夏が見えゐたり〉〈冬満月百の夜のいろ思ふべし〉〈むざむざと人ゐぬ部屋の明け易し〉〈春の雪どれも仏の目とおもふ〉〈百合白くいちにち言葉失せにけり〉〈世の中がみんな暮れゐてりんご食む〉〈冬すみれ咲くこころえのありにける〉など、いくつも見られる。掲句も含めこれらの作品からは、南米の詩人オクタビオ・パスのいう「神話的時間」を懐孕する一つの言語空間とでもいった趣きが感じられるところがある。

また、〈遠くからくるやすらぎにいぬふぐり〉〈葉桜となるやすらぎにふれに来し〉〈緑蔭の少年少女より淡し〉〈人ひとり忘れてゐたる冬日向〉〈木の上に人がゐさうな九月なる〉〈ある寒夜ふつりと男らに混じる〉などといった作品からは、掲句にも若干感じられる女性的な柔和さといった要素が割合顕著にみられるように思われる。

金田咲子(かなだ さきこ)は昭和23年(1948)、長野県生まれ。昭和46年(1971)、「雲母」入会。昭和59年(1984)、『全身』。共著に『現代俳句のニューウェーブ』(立風書房)、『現代俳句集成』(立風書房)など。