【21】  炎帝につかへてメロン作りかな   篠原鳳作

「炎帝」とは、基本的に「夏を司る神」もしくは「火を司る神」を意味するものであり、俳句では夏の季語ということになる。ここではおおよそ夏の季節そのものの象徴といった意味合いで受け取っておけばいいであろう。

掲句は、昭和8年(1933)の作で、篠原鳳作が昭和6年(1931)に沖縄の県立宮古中学に赴任してから数年後のものということになる。よって、これは沖縄の風景をそのまま描いた句ということになるはずである。

まず、「炎帝」という言葉のやや厳めしい語感が、夏の苛烈な暑さを直載に感じさせる。また、この「炎帝」に対しての「つかへて」(仕える)という言葉によって「メロン作り」に勤しんでいる人々の姿が随分と小さなものとして見えてくる。あと、この「炎帝」という言葉の作用によって、まるで上空から、島全体とそれを取り囲む海の景観までをも俯瞰し得るようなイメージが想像できるところがある。

ここには、やはり沖縄の広大な自然の景観そのものが、そのまま作品の上に反映しているということになるのであろう。他に沖縄の景観を詠んだものとして、昭和7年(1932)の〈雲の峰夜は夜で湧いてをりにけり〉〈荒波に這へる島なり鷹渡る〉、昭和8年(1933)の〈カヌー皆雲の峯より帰りくる〉〈飛魚の翔けり翔けるや潮たのし〉、昭和9年(1934)の〈太陽を孕みしトマトかくも熟れ〉〈一碧の水平線へ藤寝椅子〉などが見られる。

いずれも掲句と同じく広大な景観を捉えた作といえよう。「自己の存在」とそれを取り巻く「巨視的な自然の景観」。このあたりに篠原鳳作の作品における特徴の一つを見出すことができるのかもしれない。例えば、有名な昭和9年(1934)の連作「海の旅」の〈満天の星に旅ゆくマストあり〉〈しんしんと肺碧きまで海のたび〉〈幾日はも青うなばらの円心に〉などの句にしても、やはり同じ構図を見て取ることができる。

他にも、昭和9年(1934)に〈稲妻のあおき翼ぞ玻璃打てり〉〈鉄骨に夜々の星座の形正し〉、昭和10年(1935)に〈一碧の空に横たふ日向ぼこ〉〈日輪をこぼるる蜂の芥子にあり〉〈わたの日を率(ひきい)てめぐりゐる花一つ〉〈海神のいつくしき辺(へ)に巣ごもりぬ〉〈雛の眼に海の碧(あお)さの映りゐる〉〈月光のこの一点に小さき存在(われ)〉〈ひとひらの月光(つき)より小さき我と思ふ〉、昭和11年(1936)に〈蟻よバラを登りつめても陽が遠い〉といった句が見られる。

やはり、いずれの句にもマクロとミクロ、もしくは遠心性と求心性といった対置の関係性が見出せよう。自己の存在を立脚点とし、広大な世界の景観をあるがままに受容しようとするかのような趣きが感じられるところがある。鳳作の亡くなる年の昭和11年(1936)の〈蟻よバラを登りつめても陽が遠い〉にしても、若干諦観のようなものが見て取れるが、それでも「蟻」、「バラ」、「陽」など、世界の広大さをそのまま感じさせる内容となっている。

これらの作品を眺めると、やはり篠原鳳作の作品には、生命感溢れる広大な「南国の風土性」といったものが、相当に色濃く作用していたといえるはずである。

篠原鳳作(しのはら ほうさく)は、明治39(1906)鹿児島県生まれ。昭和3年(1928)、2月「ホトトギス」初入選。昭和5年(1930)、「天の川」へ投句。昭和6年(1931)、3月沖縄県立宮古中学に教師として赴任。昭和9年(1934)、鹿児島県立第二中学教諭として転任。昭和10年(1935)、結婚。昭和11年(1936)、逝去(30歳)。昭和55年(1980)、『篠原鳳作全句文集』(沖積舎)。