【25】  かたつむり踏まれしのちは天の如し  阿部青鞋

掲句を見て直ちに想起されるのはやはり〈我むかし踏みつぶしたる蝸牛かな 上島鬼貫〉ということになろうか。あるいは〈かたつむりつるめば肉の食ひ入るや 永田耕衣〉〈蝸牛踏み潰す淡彩の人 永田耕衣〉あたりの句が思い起こされるところもある。

掲句の特異さは、やはり下五「天の如し」の措辞によるところが大きいであろう。通常「かたつむり」が「踏まれ」た場合、その殻や本体の圧壊された無惨なイメージがそのまま浮かんでくるところであるが、ここではこの「天の如し」という言葉の作用によってそういった現実の生々しさが緩和され、作品の世界が空想の世界へとそのまま昇華されてゆくようなところがある。

若干漫画的な発想に近いものがあるが、こういった表現は同じ作者の〈梟の目にいっぱいの月夜かな〉〈キリストの顔に似ている時計かな〉〈神々のかさなりのぞく行潦〉〈水鳥にどこか似てゐるくすりゆび〉〈竪琴としてわれを搏つ木の実あり〉〈虹自身時間はありと思ひけり〉あたりにおける童話チックな趣向性に由来するものといえそうである。

また、このような作品傾向というものは、おそらく詩人の西脇順三郎や新興俳句の渡辺白泉、三橋敏雄、高篤三などの作者とも共通するモダニズムの要素が強く作用していると見ていいであろう。

あと、掲句からは「かたつむり」を踏みつけた際における足裏を通しての感覚、即ち肉体性が割合強く喚起されるところがあるが、こういった点もまた、阿部青鞋の作品における大きな特徴といえるはずである。

例えば、他に〈畦みちの虹を両手でどけながら〉〈時間とはともあれ重いキャベツのこと〉〈砂掘れば肉の如くにぬれて居り〉〈にんげんはなれなれしくて夏蜜柑〉〈左手が右手に突如かぶりつく〉〈くちびるをむすべる如き夏の空〉〈片あしのおくれてあがる田植かな〉〈食慾はひょっとベンチのやうなもの〉〈想像がそつくり一つ棄ててある〉〈わがにぎりこぶしは流星にはあらず〉など、やはりいずれの句からも何かしらの「手触り」や「手応え」といったものが確実に感じられるところがある。

このように見ると、地上性と天上性、原形性と無形性、肉体性と空想性などといった各々の要素が互みに自律性を保ちつつ一句の内に混在することで生成されたのが、阿部青鞋の俳句ということができそうである。

阿部青鞋(あべ せいあい)は大正3年(1914)、東京都生まれ。昭和12年(1937)、「風」参加。昭和15年(1940)、渡辺白泉、三橋敏雄などと古俳諧の研究。昭和16年(1941)、『現代名俳句集』刊。昭和33年(1958)、「俳句評論」参加。昭和34年(1959)、「瓶」創刊(後に「壜」)。昭和43年(1968)、第1句集『火門集』。昭和52年(1977)、第2句集『続火門集』。昭和58年(1983)、第3句集『ひとるたま』。平成元年(1989)、逝去(74歳)。平成6年(1994)、『俳句の魅力 阿部青鞋選集』。