【26】  深淵を蔓がわたらんとしつつあり   神生彩史

掲句は無季の作品ということになる。それでも無季ゆえの弱さというものがさほど感じられないのは、まず、眩暈を覚えるような「深淵」の深さの超絶性ゆえと、また、もうひとつの理由としては、その「深淵」を渡ろうとする「蔓」の植物としての生命力の強さが感じられるゆえということになるのであろう。

例え大地に根を張っている植物の「蔓」であろうとも、「深淵」の上という足場のない空間を越えてゆこうとするまさしく「地に足がつかない」不安定な状態からは、それこそ読み手の側にまでその恐怖感と緊張感が直載に伝わってくるところがある。このようなドラマ性の強さと、「蔓」の愚直なまでの懸命さというものが掲句における眼目となっている。

「深淵」の向こう側へ越境しようとする「蔓」の意志の強さと、その危険性ゆえの戦き。おそらく、このような精神の剛直さと「蔓」の存在にも自己投影してしまうような内面の鋭敏さや繊細さといったところに神生彩史の作品における特徴を見出すことができるのかもしれない。

例えば〈弾痕のひとつびとつに秋ふかし〉〈昆虫の仮死へ一気に針を刺す〉〈冬の雨錨は海の底にある〉〈先頭の男が春を感じたり〉〈淡水の海水に逢ふ春の昼〉〈荒縄で縛るや氷解けはじむ〉〈木枯やわが来し方に昨日なし〉などの句にしても、掲句にも共通する意志の強さといった要素が見て取れるが、その一方でやはりナイーブさというものが割合感じられるところがある。

元々、神生彩史という作者は昭和9年(1934)に日野草城に師事した新興俳句系の作者であり、当時の作としては〈白き船月の海ゆき居ずなりぬ〉〈青林檎歯並そろうてゐてをさなご〉〈雷とほしをさなごゼリーよりやはらか〉などが見られる。「神生彩史」という俳号の華やかさにしてもこのような作品傾向と無関係ではないであろう。

掲句は昭和24年(1949)の作である。ここでは新興俳句時代における作品の甘美さは既に影をひそめている。おそらく戦中、戦後といった動乱の時代の影響がこの作者の資質を単なる繊細なだけの俳人にとどめておかなかったのではないかと思われる。

神生彩史(かみお さいし)は、明治44年(1911)、東京生まれ。昭和2年(1927)、永尾宋斤に師事。昭和9年(1934)、日野草城に師事。昭和10年(1935)、「旗艦」創刊に参加。昭和16年(1941)、「旗艦」終刊、「琥珀」へ。昭和21年(1948)、「太陽系」入会。昭和23年(1948)、「白堊」創刊、主宰。昭和24年(1949)、「青玄」加入。昭和27年(1952)、句集『深淵』。昭和31年(1956)、句集『故園』。昭和41年(1966)、逝去(54歳)。昭和42年(1967)、『神生彩史定本句集』。