山上憶良(660年~733年)は、百済に生まれ、3歳の頃家族と共に日本へと帰還し、「近江」で育ったといわれている。滋賀県における「山」といえば、比叡山、蓬莱山、伊吹山、三上山などが想起されるところであろう。また、「近江」といえば、当然ながら「淡海の海」である琵琶湖の存在が思い浮かんでくる。
掲句は、まず〈憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむか 山上憶良〉を踏まえていると見ていいであろう。また、山上憶良といえば、秋の七草をモチーフにした和歌〈秋の野に咲きたる花を指折(およびを)りかき数ふれば七種(ななくさ)の花〉〈萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花〉が有名であるが、掲句では下五に「せりなづな」という「春の七草」を連想させる言葉が配されている。「春の七草」は正月7日に摘み取って七草粥に入れる若菜のことで、一般的には「芹、薺、御形、蘩蔞(はこべら)、仏の座、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)」の7種を指す。俳句ゆえ下五「せりなづな」を以てこの句はそのまま断ち切られ、それ以下の5種は空白の余韻の中において喚起される結果となっている。
掲句は、まさに憶良の「秋の七草」のイメージを逆手に取り、秋の季節とは反対の「春の七草」を象徴する「せりなづな」という言葉を導入することによって、嘗て在り得たであろう山上憶良の時代における春の「近江」のイメージを現出させることに成功している。
「憶良ら」、「近江」における「お」の頭韻、そして「山」、「せり」、「なづな」といった名詞の並列による調べからは、それこそ古典における歌謡に近い雰囲気が感じられるところがある。おそらくこれは、昭和48年(1973)刊の高柳重信の句集『山海集』における〈名(な)を捨(す)てて/踏(ふ)む/下総(しもふさ)の/霜夜(しもよ)かな〉〈山彦(やまびこ)も/魂(たま)ぎる/多摩(たま)や/血止(ちど)め草(ぐさ)〉〈けぶり立(た)つ/毛野(けぬ)や/つくつく/法師蟬(ほうしぜみ)〉〈朝東風(あさこち)の/常陸(ひたち)に/遊(あそ)べ/魂(たま)あそび〉あたりを踏まえての表現と見ていいであろう。
掲句は、『俳句研究』昭和48年(1973年)11月号掲載の作品であるが、このあたりの時期には、他にも〈初がすみうしろは灘の縹色 赤尾兜子〉〈水の多摩土の相模と淡雪せり 折笠美秋〉〈ふるくにに絵馬は古りにき降るは雪 坂戸淳夫〉〈故山我を芹つむ我を忘れしや 橋間石〉などといった同傾向の句がいくつ見られる。
この作者には、他に〈高照らす鶴(たづ)かなあづま詩をなして〉〈枕にて死なむ大和よゆきかふ蛾〉〈妹いかにゐますやむさし鴨寒く〉〈美濃の森ふとかつこうの応へたる〉〈桶狭間(おけはざま)なづな見入るもわざならむ〉〈しづくして生まれし倭(やまと)あざみ咲く〉〈すずしろもわれには寂し伊勢の国〉〈帰る雁手児奈(てこな)が真間(まま)をまた訪はば〉〈たまきはる多摩かな雁の一おくれ〉〈あぢさゐと遊べば鳩や美濃すぎて〉〈しきしまの鹿よ群なせわが死後も〉〈まほろばの倭は雪よ汝や嫁かむ〉〈甲斐は雨さ渡る鵠(くひ)のいや細し〉〈花や散る飛騨路やひたに汝を追はむ〉〈満月を伊勢に落せりあめんぼう〉などといった作品が見られる。
これだけ地名と韻律による手法を徹底させた作者も稀であろう。同時代の作者の中でもこの手法による作品数は突出している。結局のところ、この作者が志向していたのは、古典的な調べやリズムへの遡行による日本語の原型的な質感への希求ということができそうである。
しょうり大(しょうり だい)は、昭和18年(1943)、愛知県生まれ。「鷹」、「俳句評論」所属。