【37】  鳥雲に石は千年答へざる   河原枇杷男

太古の日本では、木や草が「もの」を言っていたという。その後、天の神が降りてくるに至り、漸く秩序立てられるようになったとの記載が『日本書紀』に見られる。

「もの」という言葉は、古代においては単なる「物体」のみならず、霊や仏、魂などの存在をも指し示す言葉であったという。掲句では、「石」が「答へ」ようとしない、即ち「もの」を言うことなく沈黙した状態を続けているということになる。当然、常識的に考えた場合「ものをいう」石など現実には存在しないわけであるが、アニミズム的な思想やフォークロア(民間伝承)などの分野においては「石」も含め様々な事物が「ものをいう」世界観というのも、さほど珍しいものではないであろう。

掲句の内容は、それこそ「前近代的な世界」に近いものがあるといえそうである。思えば、掲句における「鳥」の存在というものもまた古来より「人の魂」と見做されてきたものであった。

この「石」に問いを発したのは、作中主体の「われ」ということになろうか。思えばこの作者の代表句には〈身の中のまつ暗がりの螢狩り〉といった作が存在する。この「身の中」の闇の世界において「螢」を追い求めようとする行為は、それこそ自己の内なる世界の在りようを見究めようとする姿勢に他ならないであろう。掲句の上に見られる「もの」である「石」への「問いかけ」、それはこの「螢狩り」の句に見られる自己探求とも共通するものといえそうである。

この作者には、他にも〈秋かぜや耳を覆へば耳の聲〉〈萍の一つは頭蓋のなかに泛く〉〈身のなかを北より泉ながれけむ〉〈秋の暮こころ綾取りして居りぬ〉〈雪よ木の耳に蔵はれてゐる聲よ〉〈心身は扉にあらずや冬の暮〉〈星月夜こころに羽搏つもの棲みて〉〈瞑らねばみえぬもの在り鏡餅〉など、自らの内面を深く見つめようとする句が数多く確認できる。

ここに見られるのは、まさに果てしのない「自己探求」への意志であろう。この作者にとって畢生のテーマであったのは、おそらくこういった「存在の謎」への追尋ということになるのかもしれない。

また、少し別の言い方をするならば、「自己という完結した球体の世界」を唯一の住処としていたのが、この作者といえそうである。例えばそのことは〈冬蝶を鈴のみちびく虚空かな〉〈揚雲雀死より遠くは行きゆけず〉〈天の川われを水より呼びださむ〉〈穂絮一つ夢窓國師を追ひゆけり〉〈繭を日に透かせば驟雨遥かより〉〈十六夜の天渡りゆく櫓音かな〉〈熄まざりき夢の終りを春の雪〉〈峠この夢のいづこも蟬しぐれ〉〈手のひらの芒原こそ秘めおかむ〉〈物書くや夜の雲雀が又揚がり〉〈又夢を来るは暮春の帚賣〉などの句を見れば、概ね理解できるであろう。まさしくこれらの作は、自己という密室(ミクロコスモス)の内側において延々と繰り返される夢想といった趣を示している。

しかしながら、これらの世界は一方でまた「現実の世界」の別のかたちによる表現である、ということもできそうである。例え夢想であったとしてもそれを突き詰めた場合、現実の世界そのものと近接してくる面があるのかもしれない。それこそこの作者の作品世界と現実の世界とは、まるでネガとポジの関係を表象しているようにも思われる。

この作者の指向性からは、どこかしら吉田兼好の『徒然草』や鴨長明の『方丈記』の各々の最終部における自己存在の凝視によるモノローグの場面が髣髴としてくるところがあるが、これはやはり単にゆえなき連想というわけではなく、河原枇杷男もまた、兼好や長明らと同じく自己を含むこの世界の在りようを深く見据えようとする思索者であるという点において共通するものがあるゆえ、ということになるのであろう。

河原枇杷男(かわはら びわお)は、昭和5年(1930)、兵庫県生まれ。昭和29年(1954)、永田耕衣に師事「琴座」同人。昭和33年(1958)、「俳句評論」同人。昭和43年(1968)、第1句集『烏宙論』。昭和45年(1970)、第2句集『密』。昭和46年(1971)、第3句集『閻浮提考』。昭和50年(1975)、第4句集『流濯頂』。昭和55年(1980)、第5句集『訶梨陀夜』。昭和58年(1983)、「俳句評論」終刊後、「序曲」創刊主宰。昭和62年(1987)、第6句集『蝶座』。平成元年(1989)、「序曲」終刊。平成9年(1997)、『河原枇杷男句集』。平成15年(2003)、『河原枇杷男全句集』。