秋の夜の景であろう。「露更けし」というやや変則的な措辞によって一句が始まっている。当然ながら「露」は秋の季語となる。その後に続く中七に「ぎつしり」というやや重みのある表現が出てくるが、この言葉の作用によって、秋の夜空に「星座」が所狭しと犇き合っている様子がそのまま実在感を伴って目に浮かんでくるところがある。これだけでも、充分に迫力のある景観が描かれているわけであるが、さらに最終部の下五において、「死すべからず」というなんとも只ならない言葉によって一句が締め括られている。
秋の澄み切った夜空に真砂を撒いたように燦然と煌めく数多の星の光。「死すべからず」という措辞は、こういった景を眼前にすることで自らの胸中に湧出してきた言葉なのであろうが、それと同時にまるで数多の星々が「声なき声」によってそのように囁きかけてきているようにも感じられる。
ここには、まさに世界そのものが発する圧倒的な「無音のシンフォニー」が繰り広げられているわけであるが、この壮麗さと迫力は、下五における死の意識と背中合わせであるがゆえに生じる結果となったものといえそうである。掲句は、第4句集『七曜』収載の昭和16年(1941)の作であり、この時期誓子は病により療養生活を送っている。下五の「死すべからず」という6音の字余りによる響きがなんとも重い。単に晴朗なだけの言葉は、おおよそ心の内をただそのまま素通りしてゆくのみであり、絶望に屈するのみの言葉には、精神の深部に働きかける意志の響きは宿らないであろう。ここには作者の心の内より発せられた真率な声が感じられる。
山口誓子といえば、非情なまでに即物性に徹した冷厳な作者といった印象が強いが、時としてそういった側面とは異なる情感の存在が見え隠れする部分がある。掲句にしてもそうであるが、他に〈学問のさびしさに堪へ炭をつぐ〉〈螇蚚をあはれと放つ掌を見たり〉〈ひとり膝を抱けば秋風また秋風〉〈蟋蟀が深き地中を覗き込む〉〈嘴のべて鵜か炎天もまたさびし〉〈尻尾なき蜥蜴も出でて日をまぶしむ〉〈かりがねのこゑするたびに吾(あ)を隔つ〉〈海に出て木枯帰るところなし〉〈悲しさの極みに誰か枯木折る〉などといった句が存在する。これらの作品を見るとやや内省的というか、さらにいうならばやや悲哀感の強い印象を受けるはずである。
このように見ると、誓子の俳句の内にはある種の抒情性が底流しているのではないかと思われてくるところもある。誓子の作品を改めて眺めてみると、他にも〈夜を帰る枯野や北斗鉾立ちに〉〈郭公や韃靼の日の没るなべに〉〈探梅や遠き昔の汽車にのり〉〈水暮れて海の鳥来る菖蒲園〉〈飼屋の灯后の陵の方にまた〉〈塩田のゆふぐれとなる遍路かな〉〈走馬燈青水無月のとある夜の〉〈掌に枯野の低き日を愛づる〉〈野の花の玫瑰濃きに旅ゆけり〉〈向日葵に天よりも地の夕焼くる〉〈駅を出て春の没り日に向いて帰る〉〈茜さす方へ氷塊搬び去る〉〈ゆく雁の眼に見えずしてとどまらず〉〈炎天の遠き帆やわがこころの帆〉など、やはり抒情的な句がいくつか見られる。掲句にしても、割合抒情的な内容の作品といっていいであろう。このように見ると、「星」や「夕日」、「灯の光」、「雁」、「帆」などといった存在(実在)が、誓子の孤独感に対する慰藉となっているようにも思われる。もしかしたら、誓子の事物への深い感応は、こういった内なる孤独感に端を発してのものであったといえるのかもしれない。
山口誓子(やまぐち せいし)は、明治34年 (1901)、京都市生まれ。京大三高俳句会に入会。日野草城の誘いが契機で、「ホトトギス」へ投句。大正11年(1922)東大法学部に入学、東大俳句会で高浜虚子の指導を受ける。昭和4年(1929)、「ホトトギス」同人。昭和7年(1932年)第1句集『凍港』。昭和10年(1935年)第2句集『黄旗』、「ホトトギス」を離れ水原秋桜子の「馬酔木(あしび)」に同人参加。昭和13年(1938)、第3句集『炎昼』。昭和17年(1942)、第4句集『七曜』。昭和21年(1946)、第5句集『激浪』。昭和22年(1947)、第6句集『遠星』、第7句集『晩刻』。昭和23年(1948)、「天狼」を創刊。昭和25年(1950)、第8句集『青女』。昭和30年(1955)、第9句集『和服』。昭和42年(1967)、第10句集『構橋』、第11句集『方位』、第12句集『青銅』、『定本山口誓子全句集』。昭和52年(1977)、第13句集『一隅』、第14句集『不動』、『山口誓子全集』全10巻。昭和54年(1979)、『遍境 句文集』。昭和59年(1984)、第15句集『雪嶽』。第16句集『紅日』。平成3年(1991)、第17句集『大洋』。平成6年(1994)、逝去(93歳)。平成8年(1996)、『新撰大洋』。