【45】  頭の中で白い夏野となつてゐる   高屋窓秋

高屋窓秋がその出発点において最も影響を受けた俳人はおそらく水原秋櫻子であろう。秋櫻子といえば、〈桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな〉〈綺羅星に峡は明けゆく狩くらや〉〈むさしのゝ空真青なる落葉かな〉〈金色の仏ぞおはす蕨かな〉〈春日野の藤を華鬘となしたまふ〉などといった自然の光や鮮やかな色彩感覚に満ちた作風が特徴である。

こういった特徴は、窓秋の〈虻とんで海のひかりにまぎれざる〉〈蒲公英の穂絮とぶなり恍惚と〉〈月かげの海にさしいりなほ碧く〉〈ちるさくら海あをければ海へちる〉〈山鳩よみればまはりに雪がふる〉などの上にはっきりとその刻印を見ることができよう。また、このような共通項のみならず両者の作品には若干異なる側面もある。例えば、秋櫻子の作品においては、一句の内に語句をやや多く詠み込もうとするため緊密な構成となる傾向が強いのに対して、窓秋の作品の方は意図的に語句を少なくし出来る限りシンプルなかたちを以て一句を構成させようとする指向性が認められる。

掲句についてであるが、窓秋の作品の中では、やはりこの著名な句を挙げざるを得ないようである。『馬酔木』昭和7年(1932)1月号初出の作で、「馬酔木」の作風をさらに一歩推し進めたものということになる。前年の昭和6年(1931)には同じ窓秋による〈霧下りて青い夜空となつてゐる〉〈雲の峰と時計の振子頭の中に〉などの試作が見られるが、これらはまだ完成の域に達しているとは言い難い。それに較べると、掲句は「馬酔木」的な要素をベースとしつつも、「夏野」それ自体を超越性を伴ったかたちを以て生起させ得たまさに窓秋における記念碑的な作品といえよう。

この「頭の中」の「白い夏野」は、限定的でありながらも一方で非限定的な空間の広がりを湛えている。また、この「白い夏野」には、単なる空想の内のみにとどまることのないリアリティーが感じられるところがあるが、それはやはり「白い夏野」という表現が、実際の「夏野」と直接的な繋がりを以て認識されるゆえなのであろう。「白昼」という言葉が存在するように、強い日射しを伴う「夏野」の様相を「白い」と形容してもさほど異和感のないところがある。そして、こういった超越性を伴った表現からは、それこそ芭蕉の〈海くれて鴨のこゑほのかに白し〉〈石山の石より白し秋の風〉などと通底するものが感じられる。

窓秋の作には、初期(昭和2年~昭和6年)の〈不知火の殊に光りて船路かな〉〈夜光虫小魚走ればほのかにも〉〈露けさの光ばかりがみえにけり〉〈金色の日脚垂れたり蜜柑山〉から、一貫して「光」への指向性が内在している。その後も、掲句も含め〈白き羽の春のひかりの鶏を見る〉〈白蛾をりにぶく光れば闇きわむ〉〈ひかり野の日にも月にも枯れしかな〉〈あめつちの 蝶の毛深さ ひかり来よ〉〈聳えたる黄金のひかり鳥世界〉〈鳥は叩く石に棲みゐる日月を〉〈緑星秘色秘曲とうまれけん〉〈根の国へ白より外のわが生(よ)なし〉〈白く又黒きひかりの冬の旅〉〈永遠と宇宙を信じ冬銀河〉など様々な「光」を湛えた句が数多く確認できる。

生前最後の発表作には〈星影を時影として生きてをり〉という句が見られる。星の光それ自体が「時」そのものであるという認識。ここからはそれこそ「光」そのものを自らの裡において絶対的なものとして位置付けようとする意思が見られよう。このように見ると、窓秋にとって「光」は、まさに生の意識そのものであったのではないかという気がする。

高屋窓秋(たかや そうしゅう)は、明治43年(1910)、名古屋市生まれ。昭和5年(1930)、「馬酔木」発行所を尋ね、水原秋桜子に師事。昭和10年(1935)、「馬酔木」を離れる。昭和11年(1936年)、第1句集『白い夏野』(龍星閣)。昭和12年(1937)、句集『河』、渡辺白泉の誘いで「風」に参加。昭和13年(1938)、「京大俳句」参加、昭和23年(1948)、「天狼」創刊に参加。昭和28年(1953)、第3句集『石の門』(酩酊社)。昭和33年(1958)、「俳句評論」参加。昭和51年(1976)、『高屋窓秋全句集』(ぬ書房)。昭和60年(1985)、『現代俳句の世界16 富沢赤黄男 高屋窓秋 渡辺白泉集』 (朝日文庫)。平成3年(1991)、「未定」に同人参加。平成5年(1993)、句集『花の悲歌』。平成11年(1999)、逝去(88歳)。平成14年(2002)、『高屋窓秋俳句集成』。