【46】  しろきあききつねのおめんかぶれるこ   高篤三

「狐」という言葉からは、どことなく現実の世界より若干遊離しているような印象を受けるところがある。それは、やはり古来より様々な昔話に登場し、また他方では稲荷の神の使いとも考えられ、さらには「狐火」、「狐の嫁入り」、「狐憑き」などといった言葉が存在しており、そういったやや前近代的な雰囲気が付随しているゆえなのであろう。

掲句において、子供が「きつねのおめん」をかぶっているのは秋の祭が行われているためであろうか。「しろきあき」は「白秋」のことで、秋の異称となる。一応掲句には子供が狐のお面をつけている様子が描かれているだけであるが、単にそれのみならず「しろき」という言葉と「きつね」という言葉の関係性からは、それこそある種のフォークロア的な雰囲気さえ幾らか感じられるところがある。

掲句は、全ての文字が平仮名によって表記されている。内容の面もさることながら、この平仮名の作用によって一句の世界がある種の童話性を帯びて現前してくる結果となっている。掲句は昭和10年(1935)の作であるが、同じ作者の同時期の句には〈てのなかのいなごはうごくかぜのなか〉〈しろきあきぶりきのらつぱてんへふく〉〈バスのはくにほひおふこにさとのあき〉などが見られる。

こういった平仮名による表記からはやはり幼児性が強く感じられるところがあるが、高篤三の作品には、他にも〈体操や春服の少女三人休む〉〈秋風に向く児目つぶり口むすぶ〉〈薫風に少女は赤い舌を出す〉〈算盤の古く重たき秋の風〉〈北風の少年マントになつてしまふ〉〈北風の少年独楽を最も愛す〉〈春日の町にも町にも子供はゐて〉〈すかんぽや支那の子供はかなしかろ〉〈天狗の面さげて帰れる秋祭〉〈甘茶提げゐて帯結はぬ童はも〉〈凩に巡つてゐたる木馬館〉〈真夜中の雛あかあかと在はしけり〉など、主に子供の世界をモチーフにした句が数多く確認できる。

また、こういった「幼年の世界」は、時として空想の世界へも踏み込んでゆく。 〈Buu Buuと烏天狗は来るらし〉〈樹に枝に羽搏つて飛ぶ烏天狗〉〈突風の烏天狗は風の色〉などの「烏天狗」の世界。そして、 〈仲見世やいつかつれだつ河太郎〉〈踊り子の鏡の中の河太郎〉〈国際劇場深夜の椅子に河太郎〉〈河童の河原にとほく秋祭〉〈浅草寺大屋根駆る河童子〉〈早取写真レンズの中の河太郎〉〈鯉抱いて茶畠奔る河童子〉といった「河童」の世界。これらの世界はその空想性から「絵本の世界」に近いものといえようか。

掲句も含めこういった作品を見ていると、それこそ谷内六郎(1921年~1981年)の世界がそのまま髣髴としてくるところがある。

高篤三は、浅草で生まれ育ったという。作品を見ても〈浅草は風の中なる十三夜〉〈淡島さま六地蔵さまの夜寒かな〉〈浅草に育ち住みゐて祭かな〉〈浅草や菖蒲を屋根に投げゐたり〉などが確認できる。浅草といえば昔より遊興の地として有名であるが、篤三の作品世界はこういった土地柄とも無関係ではないはずである。その世界は、それこそ「下町のモダニズム」による「和製メルヒェン」とでもいったような趣きがある。

これまで見てきたように、篤三の作品は「幼児性と空想性」が基調となっているわけであるが、こういった作品世界には、当時の時代状況も少なからず影響を及ぼしていたようである。掲句は昭和10年(1935)のものであるから、この時代はまさに戦争の影が大きく忍び寄ってきている時期であり、篤三はそういった状況の中で句作を続けていたということになる。時代の脅威とそれに対する自己の内なる世界。このように見ると、高篤三の作品世界は、戦争の影に生まれた「小さなユートピア」であったということになるようである。

高篤三(こう とくぞう)は、明治34年(1901)、東京浅草生まれ。昭和9年(1934)、 「海蝶」創刊同人。同年「句と評論」同人。昭和20年(1945)、逝去(43歳)。句集『寒紅』、『少年河童』、『少年』、『浅草人』。合同句集『新暦』、『出発』、『現代名俳句集第二巻』。平成3年(1991)、『高篤三句集』(細井啓司編 現代俳句協会)。平成4年(1992)、『高篤三詩文集』(細井啓司編 現代俳句協会)。