【49】  山百合や母には薄暮父に夜   堀井春一郎

ここに描かれているのは、父と母に対する複雑な心情であろうか。この作者には、他にも〈結氷や夕日まみれの父の斧〉〈さらばされば父を愛してもぐらの夏〉〈黴色の粉(こ)にむせ父の日の母よ〉〈エレキギター梅雨鳩を消し母を消す〉などといった句が見られる。

「山百合」は、夏の季語であり、その花は、広い漏斗状に6片の白い花弁を反らして開く。花弁の内側の部分には各々薄く黄色い筋が入っており、内側全体にはいくつもの赤い斑点が点在している。また、「山百合」は、百合の中でも最大の種類のもので「百合の王様」ともいわれている。

「薄暮」は、日暮れのことを意味する。掲句は殆ど散文性を峻拒しているような内容であるが、一応のところ、「母」に配された「薄暮」からは、温かさや安らぎなどと共にある種の哀感が感じられるところがあるといえようか。また、「父」に配された「夜」からは、孤愁と共に寡黙さゆえの底の知れない空気感が感取できるといえそうである。そして、その「母」と「父」の息子である「われ」の存在。この作者には〈少年の壺中にぐみの実と涙〉〈少年の櫂は朽ちゆく滴る間も〉〈泪なめて虹からかりし少年期〉など自らを少年に擬したような作品がいくつか見られるが、これらにはいずれも深い哀しみが湛えられているのが見て取れよう。

このように見ると、作者の胸中には、やはり両親に対しての愛憎ともいうべき思いが潜んでいるようである。掲句もまたそういった複雑な心情が「山百合」に仮託されて表現されているということになるのであろう。ただ、掲句からは「山百合」がゆっくりと静かに夜へと沈み込んでゆくイメージが浮かんでくるところがあるが、それと同時にここにはある種の甘美さが伴って感じられるように思われる。くらがりであっても「山百合」の芳香はけっして紛れることはない。そして、その事実が作者と両親の間における「一縷の繋がり」を想像させるものがあるといえそうである。また、ここからはそれこそ芭蕉の〈行く春や鳥啼きうをの目は泪〉が髣髴としてくるところがある。

「天狼」の作者でありながら堀井春一郎の作品には、それこそ「人間探求派」を思わせる私小説的な要素が全体的に色濃い。例えば〈冬海へ石蹴り落し死なず帰る〉〈見知らぬ駅過ぐ夜行に咳きて一教師〉〈初螢ゆらぐ教師の遅寝際〉〈同棲や秋暁男のみ覚めて〉〈冬鳩よ無一物経し男女ゐて〉〈陸橋の逢曳しかも十二月〉〈吊革に死ねぬ拳(こぶし)や十二月〉〈蛙田の深夜男が本音吐く〉など、いずれも私性の強さを見て取れよう。また、この作者の作品を裏側で支えているのは、卓越した韻律の感覚とそれに伴う構成力ということになるはずである。そのことは掲句を含めここに取り上げた作品のいくつかを見るだけでも充分に理解し得るであろう。私性と韻律。このように見ると、どうやら堀井春一郎という作者の根幹を成しているのは「天狼」の山口誓子や西東三鬼のみならず、もしかしたら石田波郷の存在も大きいのではないかと思われるところがある(堀井には波郷の句集『春嵐』の書評も存在する)。

上田五千石の「俳句入門 俳句―ある会得 堀井春一郎に触れて」という文章に、堀井春一郎が上田五千石のある作品に対して〈「君の今日只今の二十二歳なり、二十三歳なりの生きて、いま在る、という証明が、なってないじゃないか。なにやってんだ。いまを、真実に、切実に作らないで、どうする」〉という言葉が出てくるが、これはそのまま堀井春一郎自身の作風の在り方を直載に物語っているものといえよう。

堀井春一郎(ほりい しゅんいちろう)は、昭和2年(1927)、東京生まれ。昭和11年(1936)、宗久月丈、長谷川かな女に師事。昭和25年(1950)に「天狼」入会。昭和30年(1955)、「氷海」入会。昭和33年(1958)、句集『教師』。昭和34年(1959)、句集『修羅』。昭和46年(1971)、全句集『曳白』。昭和48年(1973)、総合誌「季刊俳句」創刊(4号で終刊)。昭和51年(1976)、逝去(49歳)。