【50】  ぜんまいののの字ばかりの寂光土   川端茅舎

「のの字」が、句の中に4つ存在している。「のの字」の部分と、それ以外に上五の末尾と中七の末尾にそれぞれ「の」が配されている。「薇」ではなく「ぜんまい」。「ぜんまい(薇)」は、春の季語で、その新芽は渦巻状を成しているのが特徴である。ここには、その「ぜんまい」が、春の野に群生している様子が描かれている。

「の」の字が実際に句の中に存在しており、その結果として、意識内で想像された「ぜんまい」のイメージが、眼前の「の」の字とそのままリンクするかたちで浮かんでくるところがある。こういった「ぜんまい」を「のの字」に見立てるという発想は、茅舎の父寿山堂が親しんでいたという「月並俳句」からのものと考えることができそうである。茅舎には、他にも〈芋腹をたゝいて歓喜童子かな〉〈しぐるゝや目鼻もわかず火吹竹〉〈酒買ひに韋駄天走り時雨沙弥(しやみ)〉〈暖かや飴の中から桃太郎〉〈横たはる西瓜の号はツエペリン〉〈一人前鶯団子唯三つぶ〉など、月並俳句的な作品がいくつか確認できる。

下五の「寂光土」とは、常寂光土、寂光浄土ともいい、永遠で絶対の浄土のことを意味する。仏の住する世界であり、生滅変化がなく、煩悩による乱れがなく、智慧の輝くところであるという。この下五の「寂光土」という言葉の作用によって「ぜんまい」の群生する「春野の風景」が仏性を帯びて見えてくるところがある。そして、この「寂光土」の一語により句の世界は完全に鎖され、作品として完結する結果となっている。また、まるで上五の末尾と中七の末尾の「の」の重畳が「寂光土」へと至る助走となっているかのようにも思われるところがある。

川端茅舎は画家を志していたという。そもそも異母兄の兄川端龍子が画家であり、茅舎自身も岸田劉生に師事し絵を描いていたとのことである。しかし、劉生の死、そして自身の病状の悪化のため画家になることを断念し、俳句に専念するようになったという。そういった事実を念頭においた上で改めて茅舎の作品を眺めてみると、やはり画家的な要素を伴った作品が少なくないことがわかる。例えば〈白露に金銀の蠅とびにけり〉〈寒月や穴の如くに黒き犬〉〈雪嶺を落ち来たる蝶小緋縅(こひをどし)〉〈麦埃(ぼこり)赤光の星森を出づ〉〈金龍のだらりと消えし花火かな〉〈河骨の金鈴ふるふ流れかな〉〈月の輪の金色澄める露時雨〉〈著莪の花崖の天日深緑(ふかみどり)〉〈黄の上に緑の露や月見草〉〈緑蔭に黒猫の目のかつと金〉など、いずれも並外れた色彩感覚の上に生成されたものであることが感得できよう。

掲句にしても春野の景観を描いたもので割合絵画的といえるが、それのみならず先にも触れたように「寂光土」という仏教用語が使用されている。このような仏教的な要素も茅舎の作品の大きな特徴であり、他にも〈露径深う世を待つ弥勒尊〉〈白露に阿吽(あうん)の旭さしにけり〉〈金剛の露ひとつぶや石の上〉〈蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ〉〈蝶の空七堂伽藍さかしまに〉〈飴湯のむ背に負ふ千手観世音〉〈土不蹈(つちふまず)ゆたかに涅槃し給へり〉〈蝙蝠の卍飛び出す伽藍かな〉などといった句が見られる。

このように見ると、川端茅舎という俳人は、画家的な資質を基底としつつ、そこに仏教的な要素までをも包含することによって「言葉の浄土」ともいうべき世界を俳句の上に現出させ得た異能の作者ということができそうである。そして、その作品は、ある面では絵画をも越えた鮮烈さを湛えているといっていいであろう。

川端茅舎(かわばた ぼうしゃ)は、明治30年(1897)東京生まれ。18歳頃から「ホトトギス」や「雲母」に投句。昭和9年(1934)、「ホトトギス』同人、『川端茅舎句集』。昭和14年(1939)、『華厳』。昭和16年(1941)、『白痴』、7月逝去(43歳)。昭和21年、『定本川端茅舎句集』。