【53】  草々の呼びかはしつつ枯れてゆく   相生垣瓜人

やや浮世離れした俳人。それが相生垣瓜人といえようか。明治31年(1898)、兵庫県の高砂町で生まれ、昭和3年(1928)、「ホトトギス」に投句。昭和6年(1931)、水原秋櫻子の「ホトトギス」離脱に伴い「馬酔木」に拠る。当時の「馬酔木」には石田波郷や高屋窓秋などが参加していたが、彼らともさほど交友が盛んであったわけではないようである。

平賀扶人「瓜人仙境遍歴」(『WEP俳句通信』20号 2004年6月)によると、瓜人の住居は〈一木一草といえども終生抜かず伐らず、蔓が延びるにまかせたという。後年先生の宅を訪ねた客にタクシーの運転手が、「ああ、あのお化け屋敷ですか」と言ったとか言わなかったとか。〉といったものであったとのことである。

瓜人の作風は、「瓜人仙境」と呼ばれており、その作品を見ると、 〈狐にも狐の牡丹咲きにけり〉〈初蝶の過ぎし跡こそ仄かなれ〉〈鳥入るを待つらむ雲の佇まひ〉〈蟻を見て人を見ざりし日なりけり〉〈惜しみなく過半を欠きし蜥蜴あり〉〈青蛙子(せいあし)にわが蕉葉を譲りけり〉〈蝸牛(くわぎう)をば拉(らつ)し来りて友とせり〉〈野分来てわが群竹を分けにけり〉〈山々の笑ひ崩れし世も過ぎぬ〉〈雨に濡れ稚き春の立ちにけり〉〈清明を称ふる鶯語聞き足りし〉〈野良猫に訪ねられたる秋日和〉〈雲も亦草の如くに芳しき〉など、まさに自らの日常身辺の「小天地」において繰り広げられる「仙境の風景」といった趣きがある。およそ都市的な景物が顔を出すことは少なく、さらには瓜人自身の人生、即ち境涯性でさえも稀薄であり作品の表側にはあまり出てこない。

瓜人の作品を眺めると、昭和6年(1931)から昭和60年(1985)に87歳で亡くなるまでの間において、主に、新年、蝶、猫、鴉、雀、亀、竹、餅、豆撒き、涅槃図、地虫、蛙、梅、椿、梅雨、炎天、牡丹、筍、向日葵、瓜、蟹、蜈蚣、蜘蛛、蟷螂、雷獣、蟇、蟻、蟬、蚊、蠅、蚤、蝸牛、蜥蜴、蛇、蚯蚓、蠓、秋声、月、雁、鵙、鵯、鶏頭、芒、菊、栗、柿、茸、藷、烏瓜、薮虱、寒気、綿虫、風邪、時雨、冬田、狐火、日向ぼっこ、侘助、大晦日などが、その句業における基本的なベースを成しており、瓜人はこれらの事象を毎年延々と繰り返し詠み続けた俳人ということになる。

それこそ限定された句作の在り方といってよく、このように世の喧騒とは遠く隔たった自らの「小天地」において瓜人は恬淡と句作を続けていたわけであるが、その世界は、先程の作品以外にも〈青梅を落しし後も屋根に居る〉〈春来る童子の群れて来る如く〉〈わが餅を見す見す黴に奪はるる〉〈先人は必死に春を惜しみけり〉〈炎帝に追ひ返されし散歩かな〉〈微塵等も年を迎へて喜遊せり〉〈生類の嘆きを余所に寝釈迦かな〉〈恐るべき八十粒や年の豆〉〈つひにゆくみちのほとりのひなたぼこ〉など、ウィットに富んだ句も多く、割合多彩である。

そして、瓜人の世界は、延々たる繰り返しの中にあっても年を経るにつれて次第にゆっくりと「幽けさ」を帯びてくる傾向にあるようである。作品として〈瓜食めば老いし此の身ぞ思ほゆる〉〈非色とも言ふべくあらし青蜜柑〉〈寒鯉のその生身こそ幽かなれ〉〈混沌となるまで暄を負はむとす〉〈幻の鷹も現の鷹も見し〉〈初霞老の坂をば淡くせり〉〈微けしと言ふものならむ老の春〉〈暄負ふや亡き人々に囲まれて〉〈万物に雑りて寒に入りにけり〉〈我も惚け真桑も淡くなりにけり〉〈年終も年始もなべて淡々し〉〈秋声は木霊の声にあらざるか〉〈老身の解け終るべき負暄かな〉〈山々はためらはずして眠りけむ〉などが挙げられる。

このように見ると、瓜人の作品は、掲句の内容のように、自らの存在そのものがゆっくりと自然の内へと回帰(同化)してゆく長いプロセスを描いているかのようにも思われてくるところがある。

相生垣瓜人(あいおいがき かじん)は、明治31年(1898)は、兵庫県高砂町生まれ。昭和3年(1928)、「ホトトギス」に投句。昭和6年(1931)、水原秋櫻子の「ホトトギス」離脱に伴い「馬酔木」に拠る。昭和25年(1950)、俳句誌「あやめ」を「海抜」と改題。昭和30年(1955)、第1句集『微茫集』。昭和37年(1962)、馬酔木賞。昭和50年(1975)、第2句集『明治草』。昭和51年(1976)、第2句集『明治草』により第10回飯田蛇笏賞。昭和52年(1977)、『自註現代俳句シリーズ 相生垣瓜人集』。昭和60年(1985)、逝去(87歳)。昭和61年(1986)、遺句集『負暄』、遺文集『言はでもの事』。平成18年(2006)、『相生垣瓜人全句集』(角川書店)。