臼田亜浪については、名前は割合有名であろうが、作品の方は、あまり詳しくは知られていないように思われる。亜浪は、大正3年(1914)8月、信州での病気療養中に高浜虚子と再会したことにより俳壇に立つ意志を固め、翌大正4年(1915)に「石楠」を創刊。俳句観の相違から虚子の「ホトトギス」には依らず、また、河東碧梧桐の新傾向俳句に対しても否定的な立場をとり、「中間派」として独自の道を進むこととなった。
その定型墨守でも自由律でもない「広義の17音詩」ともいうべき独自のテーゼからは、〈庇伝ひに鈴鳴らし鳴らす春の猫〉〈雲雀あがるあがる土踏む足の大きいぞ〉〈霧よ包め包めひとりは淋しきぞ〉〈友がゆく友がゆくかなかなの雨〉〈鵯のよろこび芽の木が雨ををどらせて〉〈暁けのかなかな三日月われをのぞき落つ〉など、やや破調気味の句が生み出される結果となった。
また、亜浪の作品の大きな特徴として、句のスケールの大きさと自然のダイナミズムの要素が挙げられよう。〈接ぎ穂かげりして昼雷のなぐれ行く〉〈雨晴れて大空の深さ紫陽花に〉〈鵜の嘴のつひに大鮎をのみ込んだり〉〈軒の氷柱に息吹つかけて黒馬(あを)よ黒馬(あを)よ〉〈今日も暮るる吹雪の底の大日輪〉〈壁のぼる蟻に峰雲の覗きけり〉〈曙や比叡の霞の街へのび〉〈人間に昼の桜の湧きあがる〉〈空まろくかかり木々の芽やはらかし〉〈大雷雨悠然とゆく一人ありぬ〉など、いずれも大いなる自然の様相が描かれている。
そして、そういった自然の諸相を描き出す際において、時として「オノマトぺ」までもが使用されることとなっている。例えば〈山蟬やかちりかちりと竹を伐る〉〈吹かれたる雪のうねうね日向かな〉〈山の荒湯のとどろとどろと月涼し〉〈山の夜のおぼろおぼろに木莵ほろろ〉〈雨が降る降るざんざと山のさくらばな〉〈ほがらほがら牡丹の蕋に湧く陽炎〉〈雛の節雲ひかひかとゆきにけり〉〈雨ざんざざんざ蛙の夜の白し〉〈ぴほぴぴほぴと木の芽誘ひの雨の鵯〉〈ざざざざと喜雨の音かな夜のぎす〉〈睡蓮にぴりぴり雷の駆りけり〉など、こういった少々特異な表現は、同時代の自由律俳句の作風ともいくらか共通するものと考えられそうであるが、亜浪の場合は自由律作家よりも定型に対する意識が強く、その分無駄のない力強いリズムを伴う結果となっており、その点において独自であるということができるように思われる。
また、自然における澄明さというものも亜浪の作品における特徴を成している。掲句にしてもそうであるが、他に〈藤咲いて碓氷の水の冷たさよ〉〈氷上に霰こぼして月夜かな〉〈蛙子のゐ群れて水の色もなし〉〈山清水魂冷ゆるまで掬びけり〉〈山霧に螢きりきり吹かれけり〉〈雪山がまともの桜澄みまさり〉〈草原や夜々に濃くなる天の川〉〈山桜白きが上の月夜かな〉〈夕三日月氷掻く音絶え間あり〉〈降りはれし氷雨に穹の澄み徹る〉など、まさに透徹した詩心をそのまま感取することができよう。
自然の相というものは、単に清明さや優美さ、穏やかさのみならず、時として荒々しさや冷厳さなど、本来的に様々な表情を有しているわけであるが、臼田亜浪という俳人は、まさにそういった自然の多様さというものを、自らの作品の上において独自のかたち以て表現し得た異色の作者ということができるはずである。
臼田亜浪(うすだ あろう)は、明治12年(1879)、長野県生まれ。明治27年(1894)、俳句を知り、月並俳諧へ投句。明治29年(1896)、子規を知る。明治35年(1902)、短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学ぶ。大正3年(1914)、静養中に虚子に会い俳壇に立つ決意を固める。大須賀乙字に会い石楠社を創設。大正4年(1915)、「石楠」創刊。大正14年(1925)、『亜浪句鈔』。昭和12年(1937)、『旅人』。昭和21年(1946)、『白道』。昭和24年(1949)、『定本亜浪句集』。昭和26年(1951)、逝去(73歳)。昭和52年(1977)、『臼田亜浪全句集』。