【56】  木洩れ日のつよきを赤き蜂占めて   野澤節子

赤いといえば、たしかに赤いようにも見える。掲句は、第1句集『未明音』収載のもので、本来的には「蜂」は春の季語ということになるわけであるが、この句集においては、夏の作品の中の一句として収められている。それゆえ「木洩れ日」が「つよ」いのは、夏の季節であるためということになる。そして、その強い日射しの中に君臨しているのが「赤い蜂」というわけであるから、少々危険な雰囲気の感じられる作品といえよう。

野澤節子は、昭和8年(1933)に脊椎カリエスを発症。病床での読書から俳句に興味を持ち、昭和17年(1942)に臼田亜浪の「石楠」に入会。同じ「石楠」の大野林火から直接指導を受けた。

臼田亜浪の作風といえば、自然の雄大さや清澄さが特徴であり、また、大野林火の作風といえば、主に抒情的な性質のものということになる。しかし、節子の作品には、亜浪や林火の上にも見られない鮮烈な表現が一つの特徴として確認できる。例えば、〈蟷螂の青き目のうちより視らる〉〈刃を入るる隙なく林檎紅潮す〉〈濃(こ)をつくす夕焼さらに飛ぶものなく〉〈きりぎりす青きからだの鳴き軋む〉〈冬天に三日月若き色濁さず〉〈壺に真白降雪前に剪りし梅〉〈虹二タ重みはる瞼の形なりに〉〈梅雨の石蟇は子ながら金ン目据わる〉〈一堂に競ふ声量雪かがやく〉など、いずれも際立った色彩感覚を見て取ることができよう。

掲句にしても、「赤き蜂」であるから、鮮烈さが相当に強く感じられるところがある。本人の発言として、初学の頃に川端茅舎の作品を読んで非常に衝撃を受けたという述懐があり(「対談 わが俳句を語る」『野澤節子』春陽堂 平成4年)、そのように考えると、こういった作品傾向は、茅舎からの影響が大きく作用しているものと見ていいであろう。

また、他に亜浪や林火と異なる点としては、節子の作品には強い情念が内在していることが挙げられよう。〈われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず〉〈秋の暮睡りてなだむ瞋(いか)りあれば〉〈天地(あめつち)の息合ひて激し雪降らす〉〈けもの来て何嚙みくだく夜の落葉〉〈春燈にひとりの奈落ありて坐す〉など、こういった表現は、やはり病によって強いられた人生の不如意に対する思いから生じたものと見ていいはずである。まさにここからは、「静かな瞋恚」とでもいうべきものが、作品の内において息衝いていることをそのまま感取することができよう。

『未明音』には、「赤」の色彩が使用された句が多く見られる。掲句にしてもそうであるが、〈枯野中行けるわが紅(こう)のみうごく〉〈芥子赤きかたはら別の芥子くづる〉〈曼珠沙華忘れゐるとも野に赤し〉〈芝焼いて曇日紅き火に仕ふ〉〈注射器に騰(のぼ)る鮮血鵙黙(もだ)せ〉〈颱風のさ中に剝きて柿赤し〉〈霜の暮赤き馬身の駈けひびく〉〈仰臥さびしき極み真赤な扇ひらく〉〈夏百日見耐へむ花の赤をこそ〉〈大入日ここに一筋紅蔦巻く〉〈メスの記憶真赤な花の地に噴き立つ〉など、例句をいくらでも挙げられる程、この句集には「赤」を用いた句が頻出する。

この「赤」は、やはり節子の情念の強さゆえによるものなのであろうが、また、それのみならず、「赤」はまさしく「生命」そのものを直載に想起させるものであり、それと同時に作者の病を超克しようとする思い、即ち生への強い意志の表れでもあったのではないかという気もする。まさにこの「赤」という色彩は、『未明音』を象徴するものといっていいであろう。

野澤節子(のざわ せつこ)は、大正9年(1920)、神奈川県生まれ。昭和7年(1932)、フェリス和英女学校入学。その翌年昭和8年(1933)、脊椎カリエスを発病。昭和17年(1942)、臼田亜浪主宰の「石楠」に入会。昭和30年(1955)第1句集『未明音』刊行。同年第4回現代俳句協会賞。昭和32年(1957)、脊椎カリエスが完治。昭和35年(1960)、第2句集『雪しろ』。昭和41年(1966)、第3句集『花季』。昭和45年(1970)、第4句集『鳳蝶』。昭和46年(1971)、「蘭」を創刊。昭和51年(1976)、第5句集『飛泉』。昭和58年(1983)、第6句集『存身』、第7句集『八朶集』。平成7年(1995)、逝去(75歳)。平成8年(1996)、遺句集『駿河蘭』。