【59】  溺愛をするべく雪はまだ序曲   清水径子

「溺愛」ということであるから、なんとも怖ろしい。それも「まだ序曲」とのことである。ここには、一応雪の降りはじめの景観が描出されているわけであるが、それこそ「雪」自体に意思があるかのように擬人化されて表現されている。さらにいえば、それのみにとどまらずまるで作者自身が「雪」そのものと化して地上を覆い尽くそうとしているかのようにさえ思われてくるところがある。

掲句は作者の平成13年(2001)刊の第4句集『雨の樹』収載のものである。この作者の作品は、昭和48年(1973)刊の第1句集『鶸』の頃から〈蛙の夜眠りおくれし樹の会話〉〈寒の暮千年のちも火の色は〉〈ふと水のやうな炎天もの書けば〉〈初み空ひとの歩みの映るかな〉〈木の実拾ふ行きたき山をまぼろしに〉〈散弾や露むらさきにひびきけり〉〈誰もしらぬ落葉が夜も見えて降る〉〈身が茂る青蘆原の蘆となり〉など、空想性や寓話性を帯びた実験的な句がいくつも見られる。

清水径子は、文学論、詩論、俳論などを広く読んでいたそうで、第1句集から最晩年に至るまでの句業を辿ってみると、延々たる試行錯誤(口語や暗喩表現、意味性の超克など)を作品の上においてひたすら重ね続けていたという事実を確認することができる。

その句業の中において特徴的であるのは、掲句にも幾分か共通する「変身」や「変貌」をテーマにした作品の存在ということになる。例えば〈貝寄風に乗りたや山河みゆるべし〉〈ぽつねんと坐せば葉のつく夏蜜柑〉〈われは風速九メートルの羽抜鶏〉〈露踏んで茄子の花にもなりまする〉〈おいしい水にわれはなりたや雲の峰〉〈いま生れ変るとすれば窓の雪〉〈アネモネになりたる事も夜明けまで〉〈夕暮れてひとり薺の花でゐる〉〈魔女になりたくて月光浴びて居る〉など、その作品の数は少なくない。

こういった「変身願望」ともいうべき指向性は、もしかしたら作者の内に湛えられた「哀しみ」の感情と深い関係にあるのかもしれない。 〈板の間を飛べない鳥としてきさらぎ〉〈雲に鳥少しかなしき方(かた)にわれ〉〈菫のように泪もろくて雨合羽〉〈春の雨夢とわかつてもう晩年〉〈死思へば君とのことは青葉木兎〉〈慟哭のすべてを螢草といふ〉〈ひとりで生れいまは河口の夕焼よ〉〈鳥帰る生きるといふは霞むなり〉〈孤独とはすさまじきかな栗の虫〉など、これらの作品のいずれにも強い哀感が湛えられているのを見て取れよう。こういった自己の内なる哀しみの感情からいくらか距離を置きたいという思いが、前掲の句のような「変身」というかたちを取って作品の上に現出していたのではないかという気がする。

また、ここに見られる悲哀の感情を「変身」とは異なるかたちによって反転させたものが、掲句における「溺愛」ともいくらか共通する、〈谷氷はるばると春日(しゆんじつ)が訪ふ〉〈露の世や小蕪は人なつかしげ〉〈ねころんで居ても絹莢出来て出来て〉〈万作が咲くよ咲いたと啼きかはし〉〈追想をすれば真葛ヶ原くすくす〉〈鶴来るか夕空美しくしてゐる〉〈水の精かかときれいな葦の花〉〈夕顔がひらいたと今日書いておく〉〈その時が来たから野菊咲いてくれる〉などといった、この世界に対する慈愛を伴う作品となって現出する結果となっているように思われる。

清水径子(しみず けいこ)は、明治44年(1911)、東京生れ。昭和12年(1937)、東京三のすすめにより俳句に興味を持つ。昭和23年(1948)、「天狼」創刊。東京天狼句会に出席。昭和24年(1949)、「氷海」創刊。翌年同人。昭和48年(1973)、第1句集『鶸』。昭和52年(1977)、秋元不死男逝去。翌年「氷海」終刊。昭和54年(1979)、中尾寿美子と共に永田耕衣の「琴座」へ投句、5月同人。「らんの会」結成。昭和56年(1981)、第2句集『哀湖』。平成6年(1994)、第3句集『夢殻』。平成8年(1996)、「琴座」終刊。平成10年(1998)、季刊同人誌「らん」創刊。平成13年(2001)、第4句集『雨の樹』。平成14年(2002)、『雨の樹』で第17回詩歌文学館賞。平成17年(2005)、『清水径子全句集』刊。10月逝去(94歳)。