本来的には、わざわざこのようなことを指摘する必要などないであろう。我々人間には、「翼」などはじめから存在しないのは自明の事実である。掲句には、電柱にのぼり作業を行う「架線工夫」の姿が描かれている。季節は、春、夏、秋のいずれでもない、冬ということになる。それも単に「冬」と表記しているわけではなく、ここでは「寒」というやや強めの言葉が用いられている。
「寒の夕焼」の中において黙々と作業を続ける「架線工夫」の姿からは、なかなかすさまじいものが感じられるといえよう。おそらく作者は、この「翼」のない「架線工夫」に対していくらか自己投影をしている部分があるのではないかと思われる。三鬼には、他にも〈叫ぶ心百舌は梢に人は地に〉〈枯原を奔るや天使図脇ばさみ〉〈屋上に双手はばたき医師寒し〉〈鴉飛び立てり羽ばたく枯野男〉〈地にころぶ黒寒雀今の友〉〈天の国いよいよ遠し寒雀〉〈地を蹴つて摑む鉄棒帰燕あまた〉〈青天に紅梅晩年の仰ぎ癖〉など、「翼」のない作者自身の自画像を描いたような作品がいくつか見られる。
第4句集『変身』以降における昭和36年(1961)に〈露けき夜喜劇と悲劇二本立〉という句が見られるが、まさに西東三鬼の作品には、自らをも含む地上に生きる宿命を負った「翼」のない者たちの悲しみや愚かさ、滑稽さに満ちた「悲喜劇」が延々と描出されている。例えば〈道化師や大いに笑ふ馬より落ち〉〈主よ人等ゆふべ互みにのゝしれり〉〈みな大き袋を負へり雁渡る〉〈男立ち女かがめる蟻地獄〉〈逃げても軍鶏に西日がべたべたと〉〈酔ひてぐらぐら枯野の道を父帰る〉〈一斉に土堀る虹が消えてより〉〈暗く暑く大群集と花火待つ〉〈蓮掘りが手もておのれの脚を抜く〉〈百の貧患者に寒のぼろ太陽〉など、まさに「翼」を欠いた者達の姿をそのまま描いた作品といえよう。
他の多くの俳人と比べて少々異色であるのは、これらの作品にも見られる「悲喜劇」の内の「喜劇」、即ち「笑い」の要素といえよう。三鬼の作品には、「黒い」ながらもなにかしらの「笑い」が同座しているものが少なくない。俳句の歴史を眺めても、こういったタイプの作者はそれほど見られない存在といえよう。他にもこのような奇妙な笑いを伴った作品として〈ハルポマルクス神の糞より生れたり〉〈夏黒き船の何処かで爆笑す〉〈秋の夜の漫才消えて拍手消ゆ〉〈霰降り夜も降り顔を笑はしむ〉〈切り捨てし胃の腑かはいや秋の暮〉〈添伏しの陽気な死神冬日の浜〉などが挙げられる。
また、三鬼の俳句には、常になにかしらの苛烈さや激しさを伴った作品が多く見られる。その中でも〈稲妻に道真向へば喜ぶ足〉〈吹雪を行くこのため生れ来し如く〉〈水飲みて激しき雪へ出で去れり〉〈満天に不幸きらめく降誕祭〉〈月光のつらら折り待ち生き延びる〉〈薬師寺の尻切れとかげ水飲むよ〉などといった句が確認できるが、ここにはまさに危機的な状況、あるいは逆境の中でこそ輝く生命の本質がそのままに捉えられているといえよう。それこそマイナスの状況を挺子にしての反骨精神さえ感じられるところがある。
このように三鬼の作品には、自らをも含む人間の存在の生々しさがそのままのかたちで刻み込まれている。結局のところ、西東三鬼という作者は、生涯にわたってリアリズムに徹し続けた作者であったといえるはずである。
西東三鬼(さいとう さんき)は、明治33年(1900)、岡山県生まれ。昭和8年(1933)、俳句をすすめられ句作開始。昭和9年(1934)、「走馬燈」同人、「天の川」に投句。昭和10年(1935)、「京大俳句」加入。昭和15年(1940)、「天香」創刊、第1句集『旗』。昭和18年(1943)、神戸に住居を移す。昭和23年(1948)、「天狼」創刊、第2句集『夜の桃』。昭和27年(1952)、第3句集『今日』。昭和37年(1962)、第4句集『変身』、逝去(62歳)。昭和50年(1975)、『神戸・続神戸・俳愚伝』。平成13年(2001)、『西東三鬼全句集』(沖積舎)。