「懐ろに匕首(あいくち)をのんだ言葉のテロリスト」(澁澤龍彦)と評された俳人。その加藤郁乎の昭和34年(1959)に上梓された第1句集『球体感覚』は、まず〈冬の波冬の波止場に来て返す〉という殆ど無内容とでもいっていいような作品で始まっている。
掲句は、この『球体感覚』以前の作品で、初期の作品を集めた『微句抄』収載のものである。「作品こはしつゝ」という表現ゆえ、やはり既存の枠組みに安易にとらわれまいとする青年の客気や気慨が窺えるといえよう。また、同じ『微句抄』には、他に〈サイダーをサイダー瓶に入れ難し〉という句も見られ、ここにおいて作者には、俳句作品の「意味性」を「こは」そうとする意思が内在しているのではないかという気のするところがある。
先に挙げた『球体感覚』の「冬の波」の句においても、こういった指向性は共通のものといっていいであろう。『球体感覚』には、他に〈花に花ふれぬ二つの句を考へ〉〈桃青む木の隊商の木をゆけり〉〈晩餐や不在を飾る咳ひとつ〉〈栗の花馬上にのこる決闘や〉〈郭公や青騎士かへる太刀の上〉〈高原の火の高まりのひとりむし〉などといった作品が見られるが、描かれている内容についてはそのまま単純には意味を解すことができず、例え句の背景を形作っている要素が理解できたとしても、おおよそ無意味としかいいようのない内容が描かれているばかりであり、やはりここにおいては「意味性の否定(ナンセンス)」がひとつの主題となっているのではないかと思われる。
その後、『えくとぷらずま』、『形而情学』、『牧歌メロン』と混迷の度合いを深めつつ、徹底した言語遊戯が句集単位で試みられており、それらのまるで形式からはみ出さんばかりの句業は、それこそある種の乱痴気騒ぎの様相を呈しているようにも見える。そして、それ以降は、徐々に江戸趣味的な作風へと向かってゆくこととなるが、その中において〈小細工の小俳句できて秋の暮〉〈小火(ぼや)と云ふいはゞ現代俳句かな〉〈あらかたは二番煎じに初しぐれ〉〈春の泥御用詩人が世なりけり〉〈水澄みて亜流の亜流ながれけり〉〈等類の句達者どもが暑いこと〉〈俳人も小粒になりぬわらび餅〉などといった句が姿を見せるようになる。俳句を破壊し尽くしてしまえば、当然爾後には何も残らないという状況が不可避的に出来する。そうなると、自ら以外のまだ「残存している俳句作品」に対して、それらを「こは」す行為を始める他なくなるということになるようである。なにしろ「言葉のテロリスト」であるゆえ、そういった方途へと向かうのも必然の理といえよう。かくして、このような他者の俳句を攻撃する作品が詠まれる結果となったのではないかと思われる。
個人的に加藤郁乎の作品に対して魅力を感じるのは〈天文や大食(タ―ジ)の天の鷹を馴らし〉〈一満月一韃靼の一楕円〉〈雨季来りなむ斧一振りの再会〉〈落丁一騎対岸の草の葉〉〈この鸚哥(いんこ)の唄だけがあらゆる一つ〉〈とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン〉〈栗の花のててなしに来たのだ帰る〉〈霏々としてあととりはない番外の灰かぐら〉〈牡丹ていっくに蕪村ずること二三片〉などの作品に見られるアクロバティックな言葉の組み合わせや語感の良さということになる。必ずしも言葉の意味性のみが感興を喚起するわけではないのは現代詩一つを取っても明らかであるが、これらの作品に展開されているのは、それこそ「言葉のサーカス」の面白さといっていいであろう。
ともあれ、こういった作品を見ると、それこそ加藤郁乎が「こは」そうとしていたのは、単に「作品」というよりも、むしろ俳句という文芸に付随する既成概念の方であったのではないかという気もする。
加藤郁乎(かとう いくや)は、昭和4年(1929)、東京生れ。昭和34年(1959)、『球体感覚』。昭和37年(1962)、『えくとぷらずま』。昭和41年(1966)、『形而情学』。昭和45年(1970)、『牧歌メロン』。昭和49年(1974)、『出イクヤ記』。昭和52年(1977)、『佳気颪』。昭和55年(1980)、『秋の暮』。昭和63年(1988)、『江戸櫻』。平成10年(1998)、『初昔』。平成12年(2000)、『加藤郁乎俳句集成』。平成15年(2003)、『加藤郁乎詩集成』。平成18年(2006)、『實』。平成22年(2010)、『晩節』。平成24年(2012)、逝去(83歳)。