【76】  老いながら椿となつて踊りけり   三橋鷹女

ダンスの様子であろうか。掲句は、『白骨』収載の昭和25年(1950)の作で、「某ホール」での仲間達との一夜を描いた作品の内の一句であるという。そうなると、掲句の「椿」という言葉は、赤いドレスをそのまま象徴しているものということになるのかもしれない。「椿」の赤は、まさに「情熱」を直載に思わせるところがあるが、ただ、掲句からは、単にそういった現実的な部分のみにとどまらない雰囲気がいくらか感じられるところがある。

「椿」は、春の季語であり、その花は、赤色大輪の五弁花を開く。そして、掲句の「老い」という言葉からはそれこそ「枯れ」のイメージがいくらか連想され、また、それとは対照的に「椿」からは、春の季節と原色の印象ゆえに自然の生命感が強く感じられるところがある。

ここでは、中七が「椿となつて」と表現されている。もし常凡な表現ならば、せいぜい「老いながら椿のごとく躍りけり」あたりの水準にとどまっていたであろうが、ここではそれとは異なり、あくまでも「なつて」という強い断定による表現が採られている。そして、そのことによって「老い」の兆しつつある人物が、まさに妖麗な「椿」そのものと化さんばかりに見えてくるところがある。

そもそも「椿」は、日本原産の植物であり、『万葉集』にも詠まれているものとなる。それゆえここにおいても、そういった古(いにしえ)の時代の気配やアニミズム的な雰囲気というものが少なからず付随して感じられる部分があるといえよう。それこそ掲句は、単なる現実における一義的な属性を離れて、永田耕衣の〈夜なれば椿の霊を真似歩く〉あたりに近い位相の作品として読むこともできそうである。

鷹女の作品には、掲句のように強い主観や情念を感じさせるものが少なくない。例えば〈初嵐して人の機嫌はとれませぬ〉〈暖炉昏し壺の椿を投げ入れよ〉〈蟷螂も燃ゆるカンナの中に棲めり〉〈心中に火の玉を抱き悴めり〉〈ひまはりかわれかひまはりかわれか灼く〉などにそういった特徴が直截にうかがえよう。また、掲句における虚の要素を含む表現については、元々初期の頃から〈蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫〉〈ひるがほに電流かよひゐはせぬか〉〈みんな夢雪割草が咲いたのね〉など、いくらかフィクショナルな要素が確認でき、こういった傾向は、やがて〈かはほりは火星を逐はれ来しけもの〉〈千万年後の恋人へダリア剪る〉〈虹消えて了へば還る人妻に〉〈無花果を挘ぐに一糸を纏はざる〉〈おのれ躬を巻き永遠の巻貝よ〉〈真珠と化し宝石函から出られぬ 雹〉〈口中一顆の雹を啄み 火の鳥や〉などといった神話的な空想の世界へと拡充される結果を示している。

三橋鷹女の俳句は、現在から見ると、全体的にやや表現意識が過剰であるといえるかもしれない。しかし、それでも俳句の歴史の上において、ここまで俳句表現を突き詰めた作者の存在というものもまた珍しいであろう。それこそ三橋鷹女の作品は、俳句の世界における類稀なる「奇果」ということができるはずである。

三橋鷹女(みつはし たかじょ)は、明治32年(1899)、千葉県生まれ。大正11年(1922)、剣三の俳号を持つ俳人東謙三と結婚、俳句の手ほどきを受ける。昭和4年(1929)、原石鼎の「鹿火屋」入会、師事。昭和9年(1934)、「鹿火屋」退会、小野蕪子の「鶏頭陣」参加。昭和11年(1936)、「紺」創刊に参加。昭和15年(1940)、『向日葵』。昭和16年(1941)、『魚の鰭』。昭和27年(1952)、『白骨』。昭和28年(1953)、高柳重信の誘いを受けて富沢赤黄男の「薔薇」に参加。昭和33年(1958)、「俳句評論」参加、のち顧問。昭和36年(1961)、『羊歯地獄』。昭和45年、(1970)、『橅』。昭和47年(1972)、逝去(73歳)。昭和51年(1976)、『三橋鷹女全句集』。平成元年(1989)、『三橋鷹女全集』。