【78】  いろいろな泳ぎ方してプールにひとり   波多野爽波

「ひとり」という言葉が、末尾に置かれている。「プール」は、俳句では夏の季語となる。水泳といえば、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、立ち泳ぎ、バタフライ等々、様々な泳ぎ方が存在する。元より「プール」に「ひとり」で泳いでいたのか、それとも「いろいろな泳ぎ方」を続けている内に気が付けば「ひとり」となっていたのか。ともあれ、誰もいない「プール」という徒広い空間の中にたった「ひとり」でいるという状況は、少々特殊といっていいであろう。おそらく無人であるゆえの静かさと気安さ、そして一抹の寂寥感や孤独感をおぼえるのではないかと思われる。

掲句は、昭和62年(1987)の作品となる。「プール」の中で「いろいろな泳ぎ方」を延々と繰り返している一人の人物の姿が浮かんでくるわけであるが、ここからは、どことなく作者自身が句作を行っている様子とそのまま重なってくるように思われるところがある。

爽波といえば「俳句スポーツ説」という水泳に例をとった実作に関する評論が殊に有名であり、その句作法は、基本的に頭での思考というよりも、ひたすら「多作多捨」、「多読多憶」等といった鍛練を繰り返すことによって俳句そのものを自らの心身に徹底的に叩き込んでゆくという身体意識に重点を置いたシンプルなスタイルのものとなる。

常に優れた句を得ることを第一の目標としていた作者であるが、その作風は、自然詠、都市詠、幼児性、詩人性、天上性、卑俗性、通俗性、繊細さ、純真さ、鋭敏さ、和の風景など、まさに「いろいろな泳ぎ方」という言葉の通り、多種多様な要素が混然となって展開されている感がある。

その作品の経過を辿れば、虚子、素十、草田男は勿論、さらには前衛俳句の要素までをも自らのものとしていることが確認でき、そういった蓄積から〈柏餅の太い葉脈メス煮られ〉〈セルロイド玩具に噛みあと葭切鳴く〉〈楽譜の前に近視少年雨蛙〉〈福笑鉄橋斜め前方に〉〈探梅へ黒子も雀斑の人も〉〈招き猫水中の藻に冬がきて〉〈雪うさぎ巫女二人仲睦まじく〉〈ハンカチの縫取やさし鰻の日〉〈針金をペンチで剪つて源五郎〉などといった、視覚や聴覚、触覚など様々な感覚の混成からなる不可思議な句までもが創出される結果となっている。

このように見ると、爽波は、延々と弛まぬ修練を積むことによって「いろいろな泳ぎ方」(多様な書法)を体得するに至った作者ということができるはずである。掲句の他にも〈冬空や猫塀づたひどこへもゆける〉〈汗のもの抛りて籠にをさまりし〉〈初景色振つて揃ひしダイスの目〉〈雪うさぎ柔かづくり固づくり〉〈永き日の祇園抜けみち知り尽くす〉など、まるで爽波の作者としての在り方がそのまま反映されているかのような句をいくつか確認できる。また、これらの作品を見ると、それこそいずれの句からも、自らの技能や実力をいくらか誇るような趣きが感じられるといえよう。

結局のところ、爽波にとっては、俳句における世界こそが「自由濶達の世界」(『舗道の花』巻頭の爽波の言葉)であり、本来的な自らの場所であったということができるはずである。

波多野爽波(はたの そうは)は、大正12年(1923)、東京生まれ。昭和15年(1940)、「ホトトギス」に投句。高浜虚子に師事。昭和24年(1949)、「ホトトギス」最年少同人。昭和28年(1953)、「青」を創刊主宰。昭和31年(1956)、『舗道の花』。昭和32年(1957)、四誌連合会発足。昭和56年(1981)、『湯呑』。昭和61年(1986)、『骰子』。平成2年(1990)、『一筆』。平成3年(1991)、逝去(68歳)。平成6年~平成10年(1994~1998)、『波多野爽波全集』全3巻。平成24年(2012)、編著『読み継がれる俳人1 再読 波多野爽波』(邑書林)。