【83】  手を口にあげては食ふ枯野人   中村草田男

よく知られているように中村草田男の俳号「草田男」は、「腐った男」という言葉に由来するものであるという。神経衰弱に悩まされていた若い時期に、親戚から「お前は腐った男だ」と直接面罵された経験が基になっているとのことである。そして、その言葉を投げかけられた際、草田男は「俺はたしかに腐った男かもしれん。だが、そう出ん男なのだぞ。」と内心強く思ったという。「腐った男」という蔑称をそのまま単純に肯うことなく、自らを「そう出ん(出ない)男」と認識していたという事実は注目に値しよう。それこそここには、強い自意識とそれゆえの自負心の大きさというものを見て取ることができるように思われる。そして、「草田男」となってからの作者は目覚ましい活躍を見せることになる。

草田男という作者を読み解くためのキーワードの一つとして「過剰さ」が挙げられそうである。例えば、〈乙鳥はまぶしき鳥となりにけり〉〈手の薔薇に蜂来れば我王の如し〉〈秋の航一大紺円盤の中〉〈萬緑の中や吾子の歯生え初むる〉〈毒消し飲むやわが詩多産の夏来る〉など、いずれの句からも過剰なまでの熱量の存在を見て取ることができよう。これは、まさに絶望の淵から甦ってきた者の強さであるのかもしれない。そして、それが過剰さとして様々なかたちで作品の上に現出する結果となっているようである。

掲句は、第三句集『萬緑』収載のものである。描かれているのは、「枯野」とそこで何かを食べている人物の姿のみである。順当に考えるならばこれは「昼食」の様子と見ていいであろう。食べているのは、パンか握り飯か。「枯野」における昼食の情景ながら、若干奇妙な感じがしないでもない。その因については「手を口にあげては」という表現の部分にあるといえそうである。当たり前の事実をそのまま切り取ったものでありながら、通常、わざわざ食事の様子をこのようなかたちで描写することはまずあり得ないであろう。それこそこの「手」を幾度も口に運ぶという表現からは、普段とはやや異質な人間の生物としての側面が前景化して見えてくるようであり、さらにそれのみならずここからは、これまでに延々と繰り返されてきた「生命の営み」にまで思いが及ぶようなところがある。

また、「食ふ」の部分についても、「食ひぬ」「食へり」などではなく「食(くら)ふ」であり、ここにも表現の力強さというものを見て取ることができよう。こういった作品傾向は、〈蟾蜍長子家去る由もなし〉〈なめくぢのふり向き行かむ意志久し〉〈雲雀の音曇天掻き分け掻き分けて〉〈毛虫もいまみどりの餉(げ)を終へ歩み初む〉などにも共通する性質のものといえそうである。

草田男の句業は、年を経るごとに、徐々に混迷の度合いを増してゆく傾向を示している。〈耕馬に朝日天地睫毛を開けにけり〉〈立竹の裾巻く蛇よ詩は孤り〉〈雪中梅一切忘じ一切見ゆ〉〈飛雪のいぶき十七音詩ただ一息〉〈日盛りの中空(なかぞら)が濃し空の胸〉〈渡り鳥の一点先翔(か)く愛と業(わざ)〉など、いずれも単純なかたちでは読み解けない複雑さを包有している。こういった作品を単に難解という理由のみで安易に斥けてしまってはならないであろう。このような作品は、現在ではあまり目にできない性質のものであり、単なる洗練された表現とは異なる混沌たるエネルギーに満ちている。中村草田男は、まさに深い苦しみを潜り抜けることによって人並み外れた表現意識を自らのものにするに至った直情の俳人ということができるはずである。

中村草田男(なかむら くさたお)は、明治34年(1901)生まれ。昭和4年(1929)、高浜虚子に師事。昭和11年(1936)、『長子』。昭和14年(1939)、『火の島』。昭和15年(1940)、『永き午前』。昭和16年(1941)、『萬力』。昭和21年(1946)、『萬緑』主宰。昭和22年(1947)、『来し方行方』。昭和28年(1953)、『銀河依然』。昭和31年(1956)、『母郷行』。昭和42年(1967)、『美田』。昭和55年(1980)、『時機(とき)』。昭和58年(1983)、逝去(82歳)。昭和59年(1984)~平成3年(1991)、『中村草田男全集』全18巻(別巻1)。平成15年(2003)、『大虚鳥』。