水原秋櫻子は、元々高浜虚子『進むべき俳句の道』(一九一八年刊)に取り上げられていた原石鼎などの主観的な俳人の作品に興味を持っていたとのことである。ただ、秋櫻子が、「ホトトギス」に関わる頃には、既に虚子は主観よりも客観性の重要性を説くようになっていた。こういった事実から、虚子と秋櫻子の間には、それこそはじめからいくらかの齟齬が胚胎されていたと見ることもできそうである。そして、その後の昭和六年(一九三一)、秋櫻子は「ホトトギス」から離脱することとなった。
掲句は、第三句集『秋苑』収載の連作中の一句である。ここには、基本的に「寒鯉」の姿のみが描出されている。冬の季節における「鯉」の様子が描かれたものでありながら、寒々とした感じはさほど強くなく、むしろここにおいて比重が置かれているのは、そういった冬の季節感よりも、「寒鯉」の存在の方といっていいであろう。
そして、その「寒鯉」の姿が、「真白し」と表現されていることに注目したい。この部分は普通ならば、「白し」といった形容にとどまっているはずのものであるが、ここにおいては「真白し」というやや過剰なかたちで表現されている。「真白し」であるゆえ、普通の「白」よりもさらに鮮明な「白」の色彩が目に浮かんでくるところがあり、それゆえ現実における「鯉」の存在を越えた優美な姿が髣髴としてくる結果となっている。そして、さらには、その「鰭」の部分には、仄かに「藍」の色彩がさしているという。それこそ掲句における冬の水の透徹した印象と、この世ならぬ色合いの「鯉」の姿からは、まるで幽玄な日本画を眺めているような感覚をおぼえるところがある。
このように、掲句からは、強い美意識の存在を見て取ることができよう。まさに主観の強さが認められるわけであるが、秋櫻子の作品は、同じく強い主観の持主であった村上鬼城や原石鼎などの先行世代の作風と比べるとあまり泥臭い感じがせず、どこまでも洗練されているといった印象が強い。秋櫻子には他に〈馬醉木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ〉〈高嶺星(たかねぼし)蚕飼(こかひ)の村は寝しづまり〉〈むさしのの空真青なる落葉かな〉〈蓮の中羽搏つものある良夜かな〉〈行春やただ照り給ふ厨子の中〉などが見られ、こういった清新な感覚に、当時多くの若者たちが魅了されたというのも肯けよう。小西甚一『俳句の世界』には、〈子規は、理論的に、偉大な俳句革新をなしとげた。しかし、作品においては、かれ自身、充分にそれを裏づけえなかったし、二人の優秀な後継者は、結果において、どちらも子規の理想を実現してくれなかった。作品の面における俳句革新は、昭和六年(一九三一)ごろ秋櫻子と誓子によって、はじめて、その緒(いとぐち)がひらかれたと見るべきである。〉という見解も存在する。
ともあれ、水原秋櫻子の俳句は、それこそ絵画的な理想となるイメージがあり、その高みへと向けて一心に作品を練成させてゆこうとする指向性を多分に有していたものということができるはずである。
水原秋櫻子(みずはら しゅうおうし)は、明治25年(1892)、東京生まれ。大正8年(1919)、「ホトトギス」に投句。大正15年(1926)、句文集『南風』。昭和5年(1930)、第1句集『葛飾』。昭和6年(1931)、主宰誌『馬酔木』に「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表し『ホトトギス』から独立。『秋櫻子句集』。昭和8年(1933)、第2句集『新樹』。昭和9年(1934)、「馬醉木」を主宰。昭和10年(1935)、第3句集『秋苑』。昭和12年(1937)、第4句集『岩礁』。昭和14年(1939)、第5句集『蘆刈』。昭和17年(1942)、第6句集『古鏡』。昭和18年(1943)、第7句集『磐梯』。昭和23年(1948)、第8句集『重陽』、第9句集『梅下抄』。昭和25年(1950)、第10句集『霜林』。昭和27年(1952)、第11句集『残鐘』。昭和29年(1954)、第12句集『帰心』。昭和32年(1957)、第13句集『玄魚』。昭和34年(1959)、第14句集『蓬壺』。昭和36年(1961)、第15句集『旅愁』。昭和39年(1964)、第16句集『晩華』。昭和44年(1969)、第17句集『殉教』。昭和46年(1971)、第18句集『緑雲』。昭和52年(1977)、第19句集『餘生』、『水原秋櫻子全集』全21巻。昭和54年(1879)、第20句集『蘆雁』。昭和56年(1981)、逝去(88歳)。