俳人八田木枯の句集『あらくれし日月の鈔』(1995年刊)には〈多佳子恋ふその頃われも罌粟まみれ〉〈多佳子恋ふ修羅修羅修羅と秋の蛇〉という句が収録されている。八田木枯は、若い頃に「天狼」に投句を行っていた作者であり、これらの句については、おそらく橋本多佳子の〈罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき〉〈蛇いでてすぐに女人に会ひにけり〉あたりの作品が元となっているものなのであろう。このように見ると当時の橋本多佳子は、こういった感情を喚起させる存在であったということになるようである。
掲句は、橋本多佳子の第3句集『紅絲』収載のものである。「いなづま」は、当然稲妻のことで、秋の季語となる。「猫」については、「帰りし」という言葉があるゆえ飼っているものと見てよさそうである。「いなづま」の鳴り響く「野」から「猫」が帰ってきたという内容ながら、おそらく掲句は、ただ単に「よくぞ無事で」という感慨だけの作品ではないように思われる。「猫」が危険性の高い場所から帰ってきたというところからは、ある種のドラマ性が濃密に感じられ、さらにその「猫」を「抱く」という行為には作者の自意識の存在を見て取ることができよう。
橋本多佳子は「女誓子」と呼ばれていたという。確かに第1句集『海燕』、第2句集『信濃』などの作品を見るとそういった山口誓子に近い要素が見て取れるわけであるが、ただ、第3句集『紅絲』については、少々これまでの作風とは異なる側面が認められるところがある。例えば『紅絲』における〈冬の日を鴉が行つて落して了ふ〉〈夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木菟〉〈螢籠昏ければ揺り燃えたたす〉〈薔薇色の雲の峰より郵便夫〉〈つくるよりはや愛憎や木の実独楽〉などの句からは、誓子の作風とは、やや異質な印象を受けるはずである。誓子といえば即物的な作風が特徴であり、おおむね自らの情感については内へと沈潜する傾向を示すわけであるが、それに比べるとこれらの多佳子の作品の方は、誓子よりも多分に情感が露わといっていいであろう。
おそらくここには、昭和21年(1946)における西東三鬼、平畑静塔との出会いが大きく関与していると見ていいはずである。この時期、奈良日吉館において多佳子を含む3人での俳句会がしばしば行われたという。『紅絲』の作品における他を圧するようなドラマ性やロマンチシズムについては、それこそ三鬼の作風をいくらか髣髴とさせるところがある。そのことは、掲句を見ても同じことがいえるであろう。
誓子のメカニズムの手法については、誰が学んだとしても「事物を捉える」という点で概ね同じ指向性のものとなるわけであるが、三鬼の〈白馬を少女瀆れて下りにけむ〉〈女の前に涙し冬の胡瓜嚙む〉〈中年や遠くみのれる夜の桃〉などといった男性性の色濃い作風を、女性である多佳子が自らのものとした場合、一体どうなるか。そのことは先に引いた多佳子の句や同じ『紅絲』の〈修二会僧女人のわれの前通る〉〈雄鹿の前吾もあらあらしき息す〉〈祭笛吹くとき男佳(よ)かりける〉などの句を見ればわかるように、まさにジェンダーの差異ゆえ、劇的なまでに功を奏す結果となっている。このように見ると、橋本多佳子は、誓子や三鬼から学びつつも、彼らとは異なる濃密なまでの女性性を湛えた作風を自らのものにすることができた俳人ということができるであろう。
橋本多佳子(はしもと たかこ)は、明治32年(1899)、東京生まれ。大正14年(1925)、杉田久女の勧めで「ホトトギス」へ投句。昭和10年(1935)、山口誓子に師事。昭和16年(1941)、第1句集『海燕』。昭和21年(1946)、第2句集『信濃』。昭和26年(1951)、第3句集『紅絲』。昭和32年(1957)、第4句集『海彦』。昭和38年(1963)、逝去(64歳)。昭和40年(1965)、第5句集『命終』。昭和48年(1973)、『橋本多佳子全句集』。