2011年8月31日

簔笠の佇んでをり野分めく

再び問う、妖怪とは何か。

小説家、京極夏彦は、「妖怪」という言葉が近代になって民俗学や風俗史学の用語として用いられたことを指摘し、従来の「化け物」や「お化け」物に、「怪奇」小説、漫画が重なりつつ、通俗的「妖怪」イメージが形成された過程を丹念に論証する。京極によれば「妖怪」は、「怪しくて懐かしい」モノ、であり、水木しげるの巨大な影響下に成立した、きわめて現代的なイメージをもつ。

たとえば「妖怪人間ベム」。あるいはネットで語られる「妖怪リモコン隠し」や「妖怪ドッチモドッチ」。こうした「妖怪」たちが、どこか「妖怪」という言葉に馴染まないとすれば「懐かしさ」がないからだろう。江戸の化け物絵巻にも「いそがし」や「はづかし」のような創作的化け物が見えるが、当然現代的でないレトロ感がある。水木の描く「児泣き爺」「砂かけ婆」は、柳田『妖怪名彙』にもとづいてはいるものの、その姿はまったく水木オリジナルである。しかし簔笠をつけたり、着物姿であったりする怪しいモノが山林のなかからあらわれるという「それっぽさ」が、水木オリジナルの「妖怪」デザインを共通の「妖怪」イメージにまで押し上げているようなのだ。

きわめて曖昧な話である。しかし、かなり最近まで雑多な要素を含んでいたはずの「妖怪」が、ある程度限定的にイメージされているとすれば、やはり民俗社会や前近代社会につながっている感じ、レトロ感や自然とのつながりを想像させる「それっぽさ」が原因だろう。妖怪に実態はない。懐かしくて怪しい「それっぽさ」が、妖怪を支えているのだ。

参考.京極夏彦『妖怪の理 妖怪の檻』(角川書店、2007)