檸檬ひとつ抛らば沖へ鳥消ゆる
演劇を 見た 。先週 あたりに 宮崎玲奈との 傘の 話を書いた けれども 、 その 傘 がでてくる 演劇の 公演を するという。 ので、 御茶ノ水駅を 降りて 劇場へ 向かった。 劇 の 節々に こんな 喋り方を する 男が 登場、して なるほど ぼくの眼は 釘付けに なって、 いたのだ。 男の こえは うら高くて、 どちらかというと こゑ と 書き表し たい。 男は さざなみの ような 調子で。 ぼくは 海の にほひ、 を 感じた。 その 話し方、は ぼくに時間を 感じさせて、いた。
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ぼくはこのごろ「時間」という言葉が好きで、いろいろな「時間」を考えている。
〇蟻の時間
×雲の時間
▲ねむたさの時間
※きいろい時間
◎胎児の時間
☆火花の時間
一秒も一年も「時間」なのに、「時間」という言葉には時の長さがある。それは、能村登四郎の〈夜へつづく雲の量感曼珠沙華〉の「量感」というような言葉と似ているかもしれない。ぼくらが「時間」と云うとき、そこには既に「時」の帯が存在している。「短い時間」という言葉ですら、刹那ではない。「時間」をハッと意識するときは、いつも自分の外界あるいは自己そのものを客観視する瞬間だ。時間を忘れているとき、とある「一瞬」にはぼくだけの幻覚やまやかしや錯乱が断層のように世界に生じる。
その演劇では、拳銃を握った背広の男が突然登場し、荒々しくセリフをぶちまけて舞台から消え去った。ぼくはその一瞬、男を寺山修司かと思ったのだった。ややもっさりした黒髪に垂れ目の男がコートを靡かせながら鉄路の上を歩んでいる。そんな修司の写真を思い出したのだった。そうして終演後の花道でその役者の顔を見たが、修司には全く似ていなかった。しかしぼくは確かに、寺山修司を見たのだった。ぼくはその瞬間を、「火花の時間」と名付けよう。
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帰り道を歩いていると、目の前に青本瑞季らしい女の子が歩いていた。宮﨑と親しい彼女も、演劇に誘われていたのだろう。ぼくがエッセイに「ぼく」と書くとき、「ぼく」は生身のぼくから離れて台本の上を歩き出す。そうして「ぼく」は、彼女の狭い歩幅に、ぐんぐん、近づいてゆく。彼女が振り向くまで、近づいてゆく。