木枯さんのこと

三月十九日、大好きな八田木枯さんが亡くなってしまった…、なんだかお悔やみの言葉なんか書くのが嫌なので思うままに書き進めていきます。あまりに突然でなんというか、泣くに泣けないんですよ、ぽっかりと胸に穴が空いたみたいで、翌日はボーッとしてしまいボールペンもまともつかめず、仕事になりませんでした…。その翌日も俳人から木枯が死んだという話題を耳で聞くのが嫌で句会をサボってしまいました…。

だって今月14日の句会(木枯さんを中心とした超結社句会)では欠席されつつも選をしてくださったんですよ、僕のアホみたいな句採ってくださったんですよ…。句会の後ビールを飲みながら、うさぎさんと悦花さんと三人で、早く先生と句会したいねー、なんて言ってたのに…。

僕が木枯さんの句会に参加させていただいくようになったのは去年の二月から、木枯ファンの僕を太田うさぎさん(仲良し)が連れて行ってくださったのが最初で、だから一年ちょっとしか木枯さんを知りません、一回目の句会で僕は木枯さんを驚かせたくて

つるつるのつるの帰つてしまひけり  麒麟

というのを出したら

木枯さん「つるつるのつるって、なんかかわいそうだなぁ…」

と呟かれて没になりました。「なんかかわいそう」という時の声が優しくて、僕はますます木枯さんが好きになりました。

その句会のメンバーはみんな木枯さんの事が大好きで、なんともあたたかでほのぼのした時間が流れていて僕は毎月楽しみにしていました。

僕は直接の弟子ではないし、育てる義理はないんですが木枯さんはただただ優しくて僕のアホみたいな俳句でもぼちぼち採ってくださったり、褒めてくれたりしてくれました。今思えばこれからの僕の事を考えて、ちょっとダメでも丸くれてたのかなぁとも…、木枯さんの句会に行く時は、いつも作っているのとは違う俳句がむらむらぁっと浮かんできて、前日の夜から頭が冴えて子どもみたいにわくわくしてました。

句会ではおもいっきり暴投しても、ほっほと軽く受け止めてくれる広い選で、八田木枯が居なかったら絶対にできなかった俳句が僕にはいくつもあります、八田木枯が丸を付けてくれた俳句は宝物として別に保存しています、あれほど面白い選をする人はちょっと居ないでしょう。

句会で見る木枯さんの俳句は、もうなんていうかチラリと見たら木枯さんの俳句はこだわりが強いので浮いててわかっちゃうんです、わかってるけど、仕方ない、えーい、特選、と選らばざるを得ないのが木枯さんの俳句、「別格」という言葉がよく似合う人でした。

最後(なんてとても思ってなかったけど)の数ヶ月、飲み会の時にふと、木枯さんが宿題を出してくれる事になりました、木枯さんが季語を選んで(これがまた変な季語ばかり!)僕等がファックスでその季語で作った俳句を送り、丸やコメント付きで返してくださる、というなんとも夢のようなありがたい話、僕等はそれを「宿題」と呼んでわいわい喜んでいました。先生はこの時すでにそれほど元気ではなかったと思うのですが、いつも丁寧なコメントを付けてファックスを返してくださいました。「この句よろし」「すこし遊び過ぎかも」「堂々とした句になりました」「この中ではこれ」どれも木枯さんの声が聞こえてきそうなコメントばかりで、僕は嬉しくってファックスが来る日にはわくわくしながら早く家に帰るようにしました。

「松手入」の題で僕が作ったのが

よろよろや松の手入に口出して

丸が着いていて、コメントは「やで切ったのがよかったようです。」

この句の善し悪しは別として、僕がいったいどれほど喜んだか想像できますか?きっと「宿題」をやっていた人は皆同じような思いをしたと思います。人をふわっと導くような選でした。

最後にお目にかかった句会では、かなり体調は悪そうな感じで、周りのメンバーが「先生早く元気になってくださいね」と言うと木枯さんが少しにこりとしながら

「もう長く生きましたが、まだ…、まだ何かできるような気がするんですよ…」

と仰って、どきっとしました…、あぁ木枯さんはこっからまだ俳句を進める気なんだなぁと、すごい俳人だなぁ…と思いました。

こっちを向いた木枯さんが少し苦しそうに

「新年…の季語なんかは、君達の世代では大分違う感じでしょうね」

胸が苦しくて二時間ほどしか座っていられない状態なのに、何かを必死に伝えようとされている姿に感動しました。もともと細い木枯さんが、さらに痩せてしまって…、木枯さんは痩せてしまったけど、なんだかいつも以上に鶴を連想させるような、不思議な空気に包まれていました、それは痩せているからだけではなかったはずです。

僕は師以外を先生と呼ぶのは、なんだか馴れ馴れしくてかえって失礼な気がしてしまうので、大抵の俳人の方には○○さん、と呼ぶようにしています、もちろん空気を読んで先生と呼ぶべき場所と人ぐらいはわかってますが…。

木枯さんの事を僕は普段「木枯さんのこの前の句がね…」というように「さん付け」で呼びますが、木枯さんご本人に対しては「先生」と呼ばせていただいていました、句会で教えてもらってるんだから、句会の日は教え子として「先生」と呼ばしていただこう、という思いがあり、恐る恐る、「先生、あの…」と話かけると、やはり優しく答えてくださり、僕にはそれがとても嬉しかったんです。僕は木枯先生と呼ぶ事が好きでした。

僕が鶴や手毬唄、鏡、歌留多、針や梅、これらが好きになってきたのは木枯さんの影響です。浅草によく遊びに行くようになったのも、木枯さんから若い頃浅草で天丼を食べたと言う話を聞いてからです、今の浅草では大分違う事ぐらいわかっているけど、それでも何か、掴めそうな気がするからです。木枯さんにほめてもらいたくて、変な俳句もいっぱい作りました、もうそれは自分で善し悪しを判断しなくてはなりません…。

出してはいけないかな、と思いつつも今年思いきって木枯さんに年賀状を出してみました、僕はひどく怠け者で、手紙は一年以上過ぎたぐらいに返事を書くようなダメな人間なので、何か言いたい事がある時にしか年賀状は出しません。

年賀状の端に、ご無理のない限り「宿題」をこれからもお願い致します、楽しみにしています。というような事を書いて出しました。

木枯さんの年賀状の端には

「題詠つづけられる限り、私の力の尽きるまで」

と書かれていて、その通りになってしまうなんて…

木枯先生、ありがとうございました、僕は先生の事が大好きでした。

思い出だけ書いても随分長くなってしまったので、木枯俳句については次週書きます。