メロンのみどり、手のましろ、夕やけの色。とろけるように照らし合い、メロンの果肉が熟してゆく。
日野草城の句文集『新航路』(昭和15年2月)内「京都帝国大学新聞」第249号(昭和11年8月)の記事「涼しい俳句」の引用句。新興俳句が、最後の光彩を放っていた時代の書籍だ。その口吻は激しく、若者の昂揚を誘うに十分といった感じだが、草城の書いた文章は、いまの俳壇にもそっくりそのまま当てはまる。たとえば、以下に引用しよう。
近頃俳句が頓に盛んになつたといふ声を諸方で聴く。俳句の質が向上したといふ意味ではなく、俳句を作る人間の数が殖えたといふ意味であるらしい。大きな銀行や会社で、俳句を作る人が一人も居らぬといふところは恐らくないであらう。これらのサラリーマンや小市民に支持されてゐる俳句雑誌の数も、洵に夥しい。僕が、個人の資格に於て毎月寄贈を受ける雑誌の数は、かれこれ四十にも達するであらう。俳人や俳誌の数量にのみ鑑れば現代は正に俳運隆昌の時代であらう。しかしながら、これは唯数量だけの隆昌である。その質に考へ及ぶとき、この俳壇の賑かさ、俳人の数の夥しさといふものが、果して慶すべきものであるか、或は却つて弔すべきものであるか、俄かには定め難いのである。
数の力は怖しい。素質の低い作家の価値の少ない作品でも、似たやうな連中の多勢の支持を得れば、価値のある作品として通用し、世上の賞賛を博するに至るのである。大衆に受容・模倣され易い通俗な作風が専ら世に行はれることになり、その通俗性ゆゑに俳句をつくる人の数は一層増大する。これはまことに怖るべきそして哀しむべき相互助長である。伝統に泥む俗流俳人の数は日に日に増してゆき、その質は日に日に低くなつてゆく。(「俳壇近況」より)
一概に大衆化を否定する気はないけれど、大衆化の弊害があるのもまた事実。多数決では芸術の価値を決めることはできないと、信じたい。