2012年1月 新年新鋭作家競詠

みなさん、あけましておめでとうございます……っていうにはちょっと遅いですが、今回は一月号ということで、角川のほうでも普段の新鋭20句はお休みして「新年新鋭作家競詠7句」と題して、若手俳句作家十人の句を七句づつ掲載してます。ということで、今回はそれぞれ一句のみの掲載。ラフに行きましょう。

  図書室のアルミの書架や雪が降る     神野紗希

「アルミ」と題された七句から。
うちの大学、学部管理の図書室の書架がちょうどこんな感じ。静けさとか、金属の冷えとかが感じられて、リアル。なんかこう、あんまり本でギッチギチになってなくて、むしろこう、スッカスカな棚があったりしますよね、図書室って。あのアルミの肌が見えてくる感じ。虚ろな、もの寂しい感じ。そうしたものが、雪の日の空気の中でより強く感じられると思います。

  水尾消えてまたさざなみの小春かな     村上鞆彦

「またさざなみ」と題された七句から。
走り去る船に曳かれて、水尾も消えていく。その後にはもとのようにさざなみだけが残されている。それだけのこと。この、それだけのことが、満たされた気分を与えてくれるのは、それが小春だからなのでしょう。大味な句なんですけどね。「水尾消」までの漢字の密度から、「えてまたさざなみの」のひらがなのみつどへ、ひらけていくかんじ。水面の景色、波立つときの泡や、光のゆらめきそのものを感じさせてくれる表記です。

  おぼえなき毛布の中に目覚めたる     藤井あかり

「譜」と題された七句から。
この句、いつのまにか寝てしまって起きたら誰かが毛布をかけてくれていた、っていう句なのか、それとも、もっとスキャンダラスに、酔っ払って朝起きたら知らない男の部屋にいて、うわーっ、みたいな句なのか。僕は、やっぱ前者かなと。文語の落ち着いた雰囲気はなんとなく後者には当てはまらない気がするんですよね。なんか、この毛布は、身も心もあっためてくれるような、そういう毛布であって欲しい。

  伊勢海老ゴスゴス刃を入れられつ頭部は逃ぐ     関悦史

「ある戦いの記録」と題された七句から。
「ゴスゴス」が凄い。僕らにとって当たり前のものを、ちょっと違う感性をはたらかせて見つめなおしている句です。余談ですが、オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州では、甲殻類を生きたまま調理すると処罰の対象になるのだとか。彼らから見ると日本料理はグロテスクなんでしょう。でも、何か単にグロいものとして日本料理を浮かび上がらせるというのともちょっと違うんですよ、この句は。むしろ、こう、もっとマンガっぽい。伊勢海老の頭だけがカサカサ歩いてピョーンと海に飛び込んで、イェイ! みたいな、シュールでナンセンスで、そしてある意味では暴力的な、そういう笑いの精神がある句です。

  てのひらの重さしんじつ冬銀河     矢野玲奈

「朗読」と題された七句から。
よく考えるとよく分からない句なんですが、考えるよりは感じると言ったほうがよい句でしょう。言葉と言葉とが、感覚で接触している。ひらがなで書かれた「しんじつ」が、この句のよさなんですね。重さと言いつつ、重たすぎない。そこから冬の銀河に視点が移って、視界が広がる。銀河の質量の総和なんかを思わされるところもあって、不思議な句です。

  旅客機の真中の座席まで冬日     杉原祐之

「ネオン」と題された七句から。
「旅客機」という言葉の選択がすばらしい。ただの飛行機ではなくて、旅客機。大きさ、空間的な広がりを思わせます。そこに、ツーと日が差してくる。冬の陽射しの白さ、硬さを感じさせる一句です。
そういえば、旅客機の座席って横並びの座席の数が奇数のことが多い気がする。もし偶数だと、「真中の座席」って無いんですけど、奇数だから「真中の座席」が見えてきます。

  これはまだ幼い鎌鼬だろう     月野ぽぽな

「陽のままで」と題された七句から。
きっと、傷をみているんです。ちょっと、ピリッと裂けた傷で、これはまだ幼い鎌鼬(のしわざ)だろう、と思う。リアルとファンタジーの混在、というか、リアルからファンタジーが湧きたつ過程を追体験している感覚があります。
それにしても、鎌鼬ってなんか魅力的な妖怪じゃないですか。三人(匹?)一組で、一人目が押し倒して、二人目が斬りつけて、三人目が薬を塗るとか、何をしたいんだかよくわからない感じがいかにも妖怪的で、真空の渦、とかいう俗説も、なんかカッコイイし、なにより鼬ってモチーフすごくかわいくないですか、絵的に。そのせいか、けっこうマンガにも出てきますよね、鎌鼬って。この句はちょっと、そういうマンガ的な鎌鼬を思わせるところがあります。

  泣きさうなこころ真つ白おでん喰ふ     兼城雄

「窓なき部屋」と題された七句から。
哀しいときの心を「真つ白」と言ったところに、実感があると思いました。そこで、「おでん」。なんか、おでんって、詩にすると切ない食べ物なんですよね、裸電球の明かりとかが見えてきて。びりびりした寒さの中で欲しくなる料理だからなのかもしれません。

  はつ雪や紙をさはつたまま眠る     宮本佳世乃

「弓をみる」と題された七句から。
初雪が降り始める。そして、仕事とか、勉強とか、読書とか、なんでもいいんだけれど、その途中で、ふうっと睡魔がやってくる。そこでもう、睡魔に任せてしまう。このまま、眠る。そんな時間が、「はつ雪」の中で、なんだか幸せなものとして立ち上がってきます。

  北風や標語の長き歩道橋     小野あらた

「読みさす」と題された七句から。
歩道橋一杯に、横断幕がかかっている。それも、たぶん、二車線どころじゃない。四車線とか六車線とかの道路に架かった歩道橋でしょう。たるんでしわになったところが、北風に晒されてちょっと不規則に動いているような、そんなところまで見える。
やっぱり、この捉え方が新しいんですかね、歩道橋が長い、と言わずに「標語の長き歩道橋」と言ったところが。

    ○

さて、ここまで来て、「あれっ。これ、新年詠ですよね?」と思ったあなたは、たぶん正しい。実際、新年の句がほとんどないんですよ。セキエツさんがただひとり、新年の句で統一してるんですが、他の皆さんはほとんど冬の季語で作ってます。実際のところ、この差は同じ角川『俳句』一月号の新年詠8句と比べると歴然としているように見えます。
とはいえ、これが、いわゆる世代的な特質といえるのかは、ちょっとわかりません。サンプルが少なすぎるし、第一本当に比較するなら新年詠8句の作者たちが若手と呼ばれていた時代の句と比較する必要があるし、そもそも新年の句を詠むということ自体が特殊なのか、やはり詠まないということが特殊なのか、もっと広い視野で考える必要も出てくる。
――ってか、まあ、そもそも、今回の十人を同世代だって言うのは、やっぱ無理がある。もし、俳句が閉じたものとして成立していて、俳句は先行する俳句からしか影響を受けないんだとしたら、いつ俳句をはじめたかで世代を区切る意味が出てくるかもしれません。けど、現実はそうじゃない。もうちょっと違う観点から、かつ、もうちょっと厳密に分けにゃなりません。現代では、生まれた年が十年も違っただけでもビートニクとヒッピーくらいの価値観の差は出てくるのが自然なんですから。もし、これまでよりもぐっと厳密な区分でそれぞれの世代の句について精査した上で、世代の特質が出てくれば、これは占めたものです。そういう意味で、個人的には世代論にもまだまだ可能性はあると思うんですが、どうでしょう。
じゃあ、今回の新年詠の問題を語る言葉がないかって言うと、そんなことはもちろんないです。同じタイミングでこうした性質を示しているわけですから、そう、これは世代というよりは時代の特質として語りうるんじゃないかと思えるんです。まあ、これに言及するにも上に示したような比較は必要なんですが、肝心なのは時代と世代を区別することなんじゃないかなと。
実際、新年の句が詠まれにくいのは、時代の影響でしょう。雑な言い方になりますが、正月だからって、普段してないことをする気になるような時代でもなくなってきてる。同世代への共感性がなくなってくるから、そうした行事的なモチーフに近しい人でも、新年の句を詠まなくなる。その点、年の功のある人たちは回想の引き出しだって多いし、同世代で通じ合えるから、新年の句が比較的若い人より多くなるのが当たり前、と言えなくはないわけです。
……なんか、こう書いてみて思ったのですが、どうしても世代論とか時代論とかって、こういうサンプリングだと社会学的な見方になっちゃうのが問題かもしれないなあと。そうじゃなくて、ある世代性とか時代性とかを前提として捉えた上で、そうしたものを、ある作家がどう書いているのか。作品を評論する立場としては、そこに目をつけたい今日この頃なのです。