2015年7月4日

明るき傘よ乾きつゝ蟻のゐる

宿舎にはシャワーがあったがおれは風呂が好きだった。十数棟ある宿舎の中央部には共用棟があって浴場も開業していた。18時の開店のときが一番熱いので、その時間を狙ってくる客がいつも何人かいた。おれもその一人だった。

ところがこの日の湯は異様にぬるかった。バイトが適当にやったのだろうと思った。職業倫理を問いたかったが、かわりに元栓を開けるレバーを借り受けた。あまり利用者には知られていないが、従業員に頼めばレバーを貸してもらえた。

熱湯が噴き出る。かきまぜないと熱いところが偏ってしまうので混ぜる。手で混ぜるのでもよいのだが、洗面器でざぶざぶとやるのがツウのやり方だった。このとき風呂にはおれのほかに外国人のおっさんがひとりいるだけだった。おっさんはおれの意図を察し、一緒に湯をかきまぜてくれた。湯は数分で適温になった。おっさんとおれは終始無言だった。

風呂を出て、図書館に行った。大学の図書館は平日は24時まで開いていた。視聴覚コーナーに行ってDVDを物色した。前から気になっていた『昭和こどもキネマ』シリーズを観ようと思った。ケー・シー・ワークスから発売されているシリーズで、昭和20年代の児童映画、児童向けニュース映像、社会科教材映画などを全6巻にまとめる。

どれも面白そうだったが第4巻に収められている『光にたつ子供たち』(1946年/脚本・演出:多胡隆)を見ることにした。戦争が終わった翌年のある小学校の話である。

戦争の反省を生かし、教師たちは児童自らが学校を変えていくようになってほしいと考える。それで各学年で学級会議が開かれ、はじめは恥ずかしがっていた児童たちも次第に活発に意見を言えるようになる。6年生のあるクラスでは、学校に図書館を作ってほしいという意見が出た。先生はそれを認め、一方である本を児童たちに見せる。それは他の小学校の6年生が作ったという、自分の村の歴史をまとめた冊子だった。みんなもこれを作って、学校の図書館に置こう、と先生は提案する。

児童たちは協力して、自分のおじいさんや村の人たちに土地の歴史を聞いていく。次第に児童たちは、自分たちの村がおじいさんたちの時代よりもずいぶん貧しくなっていることに気が付く。どうしてそんなことになってしまったのか、それを突き止めるのにはまだ時間がかかりそうだった。

はじめの望みだった学校図書館は青年団や有志の援助でついに完成した。子供たちは決まりをつくって、交代で当番をしている。村の歴史の本はまだ出来ていない。村をよくするために、もっと調べないといけないと児童たちは思っている。

昭和21年なので敗戦してから初めての新学期である。戦後民主主義の気風が色濃く出ている。

各学年で学級会議が開かれるくだり、5年生のある学級について、こんなシーンが登場する。

第一回の会議では恥ずかしがって誰も発言できなかったので、次の週、先生はみんなに「学級会議」という題で綴り方を書かせる。すると児童たちから、言わなければいけないと思ったけれど、自分の意見がほんとうに正しいのか不安だった、といった感想が挙がる。それを読みあげて先生は言う。

「いま読んだ綴り方は、たいへん自分の思った気持ちを、上手に正直に書いている。いま読んだように、綴り方に書くと、みんなは自分の思ったことを正直に言いあらわすことができるんだがなあ。今度はみんなの前で正直に思ったことを言ってくれればいいんだ」

綴り方と言ってなつかしさを覚える人も今では少なかろう。今でいう作文だが、大正期から昭和中期にかけて行われた日本独特の教育手法といったニュアンスがある。自分、家族、自然、社会などをつづることで、子供たちが対象を見つめる目を養い、自己を確立することを目指した。「一九一〇年代から一九二〇年代にかけていわゆる「大正自由教育」のなかで生み出され、一九三〇年代を迎えて広く普及していき、生活綴方教育運動と総称される姿を呈した」(太郎良信『生活綴方教育史の研究――課題と方法――』1990年/教育史料出版会)あるいは「そもそも戦前の絶対主義的公教育体制の下で成立し、民主的・良心的な教師たちによって、着実に発展させられてきた」(川口幸宏『生活綴方研究』1980年/白石書店)といった記述は、それが日本語表現の向上を目指す営為であっただけではなく、歴史から切り離せない文脈を持っていたことを示しているだろう。

戦前でいえば『綴方教室』(豊田正子/1937年)、戦後で言えば『山びこ学校』(無着成恭/1951年)がベストセラーで、これを知っている人は多い。だがこれらは決して特別な物語などではなかった。当時全国の子供たちはみな授業で綴り方を書いていたのだった。『光にたつ子供たち』のワンシーンは、生活綴方運動が戦後の民主主義と結びついていくさなかを切り取った、貴重な一例であろう。