たとへばけふがのうぜんの薄さでも
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「馬酔木」2015.5を読んでいたらこういう句があってああいいなと思った。
万蕾の白梅ぽんと音しさう 西村紀子
音しさう、というのは口語だが、「万蕾」がごりごりの漢語なので、バンライノシラウメあたりまでは文語脈の感じがある。言葉の丁寧なおばあちゃんが梅の蕾を喜んでいるような景を思う。「ぽん」がいい。ふっくらとした蕾がまさにいま目の前で開くのではないかという気になる。
しばらくこの句を考えていたあと、今年の梅を見なかったのを思い出した。二月の末に北海道の実家に帰省していてちょうど時期を逃してしまった。筑波山の梅がいいと聞いてずっと行きたいと思っていた。友人と約束までしていた筈だがそれきりになってしまった。そのときは少し残念に思ったくらいだったのだが、梅の句を読んだらがぜん惜しくなってしまった。「ぽん」と音を立てて咲く梅を見なかった自分をうらんだ。物事はタイミングだ、ということくらいとっくに分かっていた筈だったのに。
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梅は来年も咲く。劉希夷が「代悲白頭翁」に
年年歳歳花相似
とうたった通りである。年年歳歳、花相似たり。来る年も来る年も同じ花が咲く。「ネンネンサイサイ、ハナ、アイニタリ」と声に出したいフレーズである。中国語で発音したらもっと気持ちがいい。劉希夷がいた唐代の音韻体系はいまと違っている筈で、調べれば当時の発音も何かの本に出ているだろうが、手元の文庫本にはないので、おれは勝手に現代中国語で読んでいる。素人の楽しみである。年年歳歳は「niánnián suìsuì」。「ネンネンサイサイ」にせよ「niánnián suìsuì」にせよ硬質な言葉の単純なリフレインなので声に出して気持ちがいい。ひびきのたしかさを感じ、それが〈年年歳歳花相似〉という言葉自体の説得力にもなる。見なかった梅を思えば少しは心が慰められる。
ところでこの〈年年歳歳花相似〉、辞書などで引くと単純に「自然が変わらないことのたとえ」などと出てくることがあるが、ここには人間の変わりやすさが含意されている。もともと26句ある七言古詩の11句目で、12句目の
歳歳年年人不同
というのと対句になっているのである。そもそもが「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代る)という、人間の老いに無常を感じる詩である。うつくしい洛陽の娘たちが桃李の落花を見てため息をつく。自分のうつくしさもまたいつか失われる。花は来年になればまた咲くが、そのときに変わらずにいる人間はいない。うつくしい娘たちを白髪の老人が見ている。この人もまたかつては美少年だったのである。
だから〈年年歳歳花相似〉〈歳歳年年人不同〉という対句は「しかし」でむすばれている。花は来年も咲くけれども、人は変わってしまう、だ。
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来年の春まで、梅に憬れていられるだろうか。この話の落としどころをそんな自問に持っていくのは安易かもしれない。だいいち「人不同」というのは生老病死を言っているのだから、おのれの気移りを憂うるにはいささかの飛躍がある。だがそれでもなお「人不同」の文字にため息をつくほどにはその梅はおれの胸をさわがせた。
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昨日、沖縄の安里りゅーたんが東京に来たので何人かで集まって一緒にカラオケに行った。りゅーたんはおれにファンモンの『告白』を一緒に歌おうと言った。いいですねなどと言いながら曲を入れた。気持ちのいい曲だった。
大好きだ 大好きなんだ
それ以上の言葉を もっと上手に届けたいけど
どうしようもなく 溢れ出す想いを伝えると
やっぱ大好きしか出てこない
(FUNKY MONKEY BABYS『告白』作詞・作曲:FUNKY MONKEY BABYS・NAOKI-T/編曲:NAOKI-T/2008)
歌い終わってりゅーたんは言った。「まあ詩人がそれ言ったら最後だよな。「やっぱ大好きしか出てこない」つってな」。そうだな、と思った。「それ以上の言葉」を予感しながら「大好きしか出てこない」のであればそれは詩人の負けだ。言葉を見つける責任が詩人にはある。がしかし一方で「大好きしかでてこな」かったこの人の気持ちもまた実生活者としてよく分かった。りゅーたんだって分かっていただろう。実生活はそのような陳腐なものの積み重ねだ。
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梅に固執する気持ちも、あるいは〈年年歳歳花相似/歳歳年年人不同〉という感慨だって、陳腐なもののうちなのは知っていた。おれは陳腐なものが実を言えば好きだった。陳腐なものは誰の手をも経ているから、耐久性があった。よしんば自分がその気持ちを抱くのが初めてだったとしても、自分以外の多くの誰かが同じ気持ちになったことがあるのだろうなという気がした。それは洗練されたものと紙一重なのではなかったか。
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あ、さっきの漢詩の出典書くの忘れてた。『新編中国名詩選(中)』(川合康三/岩波文庫/2015)。今年出たばかりの超いい本やで。
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以上で本筋は終わったが、ファンモンの件で一言だけ蛇足。ファンモンは「大好きだ 大好きなんだ」「やっぱ大好きしか出てこない」とまるで自分が「大好き」しか発していないようなことを言っているけれど、「大好きだ」「大好きなんだ」「大好き」は別物である。その区別もつかないようでは詩人としてはまだまだだなと思わんでもないが、しかし、彼らはこのときたしかに、溢れ出す思いを必死に選別し、言葉を当てはめようとしていたのである。無意識に「大好きだ」「大好きなんだ」「大好き」と言い換えてはそれでもまだ違うともどかしがるファンモンの気持ち、大好きだ。