クレーンの鉤新涼の野を探る
昨日、空港の話を書きながら思い出したことがある。そういえば、恋人とふたりで朝の空港を訪れる機会があった。10時くらいから予定があったので、それまでの2時間程度をどう過ごそうか、とその前夜に話していたのだった。
空港のかかる別れのソーダ水 成瀬櫻桃子
空港、と聞いてこの句を思い浮かべたぼくは小芝居あそびを思いついた。空港の喫茶店で、若いふたりを演じよう。ふたりは学生時代から付き合っていた。東京で就職をした男と、夢のために海外留学を決めた院生の女。朝日の柱がつらぬく南ウィングに吸い込まれていくかすかな声。台本無しの一発勝負。隣に座っているおじさんを泣かせるのが目標。密やかな快楽だ。ぼくらが、その観客たるおじさんの何らかの行動を導くことができたならば、そこに「劇」が生まれるであろう。ぼくらに作用するおじさんは単なる観客から無意識の演者としての意味を伴い、きっと彼の生活周辺に新たな演劇を生み出すだろうと、ひそかに願った。社会に生きる人間は何らかの行動をとるとき、或いは行動をとらないという行動を選択したとき、それは演じるという性質を帯びているのだと、ぼくは思う。
天井桟敷は、かつて阿佐ヶ谷で「ノック」という市街劇を企画した。チケットのかわりに一枚の「地図」が販売され、観客はこの「地図」を手に同時多発的に発生する演劇を探して回るのだ。劇団の演者や観客、阿佐ヶ谷の住民がゲリラ的に、日常生活をたゆたう平穏に小石を投じた。平穏とは何か? 劇が投じた小石は、生活の水面に水輪を描くのである。結果的に、「ノック」は近隣住民からの通報を受けた警察により、途中で公演が中止された。劇を止めるべく警察までもが劇の一演者となってしまったのは皮肉だが、まあ、オチとしては残念なこと極まりない。ぼくはふだん口を開けっぱなしにする癖があるが、おおよそこんなことを考えているときもある。
空港に着いたぼくは恋人と落ち合い、コンビニで朝食を買った。本当は喫茶店で遊ぶつもりだったが、めぼしい喫茶店がまだ閉まっていた。仕方がないので、最上階のデッキに向かった。ベンチに座って、おにぎりを食べる。
「そういえば、海外に行くようなキャリーバッグもってきてないよ」
「もう荷物は預けたということにしよう」
飛行機がまた、離陸していく。どこへゆくのだろうか。そんなことを考えて、気づいた。
「ここ、国内線ターミナルだよね?」
顔を見合わせた。ぼくの鼻から、おにぎりの粒が飛んでいった。