2016年2月11日

麗かや祈りの息は楽を秘め

「十七烈士の墓」で曲を書こう、と、自分をそんな気にさせたのも、場の雰囲気に魅了、というか、圧倒、というか、そういった類のものなのかもしれない。書かなきゃいけない気になった、と言うと己の分を弁えろと嗤われてしまいそうだが、そんなところなのだろうなと思っている。幕末という、何が正しくて何が間違いなのか、誰にも答えが見えていなくて、だからこそ何かひとつのものを強く信じひたすらそれに向かって突き進んだ時代の中で、どの人たちにも共通していたのは、このままでは日本はいけないという不安と日本をよい国にしたいという思いであり、つまり悪者なんてどこにも存在しない。真木和泉守保臣、彼は幕府の敵であり、朝廷の敵でもあり、要するに日本の敵として最期を迎えた。もう少し生きながらえていたならば、彼は日本の英雄になれていたかもしれない。ただ、楠公を崇拝し、「今楠公」と呼ばれた彼が、あのような大敗北のあとに英雄となるなど到底受け容れられなかっただろうとも思う。

十七烈士の墓を見ていま一度思い返すのは、禁門の変によって焼けたのは何も京都市内だけでなく、ここ大山崎の地も戦場となり、大火があったということ。離宮八幡宮だって焼けている。あまり知られていない事実である。蛤御門のあたりから、道のりにして20kmほど。それほどにも離れた場所での戦いの余波が大山崎の地にまで及んでいるのだから、蛤御門の変は相当大規模な戦であったのだなと実感する。

さて、曲。事情があって、編成は先に決まっている。Trp., Hr., Trbn., Euph., Tuba の変則的な金管5重奏。中低音に偏った響きとはなるけれども、却って当時の時代を象徴するにはよいだろうとも思う。それに、円錐管が多く、ともすればモヤモヤとしたサウンドにはなりそうだが、一方で火山のように、厖大なエネルギーを爆発させることなく蓄え続けているような重厚なサウンドを演出することも可能だろう。描きたいのはストーリーよりも空気感であり、抽象的な印象そのもの。曲自体の構成をどのようにしてゆくのか、朧げなイメージをいまからしっかりと形にしてゆかねばならない。

時代ものの音楽といえば、NHK大河ドラマのテーマ音楽がすぐに思い当たる。井伊直弼を描いた『花の生涯』に端を発して53年、いまは55作目の『真田丸』が放映されている。テーマ音楽は、2分30秒ほどの短い時間ではあるものの、テレビドラマの構成上でもここは音楽が主役となる部分であり、作曲家は自分の手腕を思う存分発揮するのである。三善晃や芥川也寸志、林光や武満徹をはじめとして、歴代では本当に錚々たる作曲家たちが名を連ねている。最近では、劇伴作曲家として著名な方々が名前を連ねるようになってきた。もちろん昔でも、テーマ音楽の担当時点ですでに多くの劇伴を手がけていた作曲家はいたものの、現在のように純音楽の作曲家と劇伴音楽の作曲家とはあまり分かれていなかったようである。やはり劇伴には劇伴の技法が存在するわけで、専門化してゆくのも頷ける。一方で、純音楽作曲家として世界の最前線で活躍していた方々の音楽がテーマ音楽の作曲家として名を連ねることが少なくなったのも事実で、音楽の純音楽としての面白さ、内容の充実を強くは指向していない感もあるのが寂しいところでもある。ちなみに、個人的には『春の坂道』(三善晃)や『翔ぶが如く』(一柳慧)など、好きな音楽はたくさんある。(好きな曲をもっと挙げたいが、堪えた。)

さて、そろそろ天王山を降りよう。もっともっと見るべき大山崎がある。