2017年2月15日

さへづりが消えてもしばらくはゐるよ

折り返し地点に来たので当初の目的である「思い出す」行為のことをもう一度違う角度から書きたいと思う。

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昭和37年3月7日は富澤赤黄男が、昭和47年4月7日は三橋鷹女が亡くなった日で、そんなことから俳句の父を赤黄男、母を鷹女とした重信は自分の命日はきっと昭和57年5月7日だと言っていたと伺ったことがあります。結局重信はその1年と少しを過ぎた昭和58年7月8日に肝硬変で亡くなり、昭和58年8月号『俳句研究』(俳句研究新社)の最初のページには急告として重信の死が報告され、追悼号の11月号へと至ります。この8月号から12月号年鑑に至る一連の号を読んでいると胸に迫ってくるものがあります。

僕が、その言葉を通して、何かを見たと信じ、それを見たことによって、なにがしかの感動めいた興奮が生まれたとき、それは僕の作品として書きとめられる。(中略)あるいは、僕の場合は、俳句を「書く」というよりも「見る」というべきかもしれない。
(『バベルの塔』高柳重信(永田書房、一九七四)「「書き」つつ「見る」行為」)

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当たり前のことであるが、俳句はことばで書かれ、書かれたことばの世界から読まれる。
どのことばを見てどのことばを救い取るかそしていかに書くか。書くに至るまでにはわたしの、あなたの生い立ちや思想が源泉にある。ことばを見る行為には常に「思い出す」ことが含まれており、わたしは、わたしがものを「思い出す」ことを考えながら、俳句が生き様の記録としてあるのではなく、自分を内省するかたちの中にあるものとして書きたいと思っている。